2002年4月27日

この女性を知っていますか?
彼女は海外での活動経験もなく、アムハラ語はもちろん、英語もままならないのに二年間という月日をここ、ラリベラで過ごしました。彼女はここで、フー太郎の森基金のプロジェクトを軌道にのせ、村人に愛され、村を愛し、そして去っていきました。
そして、私がラリベラで過ごしはじめて六ヶ月。ある旅行者の一言「なんかぁ、こういう海外で働いてる人ってぇ、日本じゃやっていけないって感じですよねぇー」。日本が狭いからという意味だろうか、それとも日本人社会のことを言っているのか。真意はまだわからない。
私は日本が大嫌いのまま出国してきた。何かおかしい、何か違うと漠然とした疑問はただ膨らむばかり。とくに海外を希望していたわけではなく、ただ「出遭ってしまった」から来たのだが。
ある意味、日本で生きて行くよりは楽だと思う。違う文化のもとで育ったゆえに、しがらみがないように思える。しかし、全てが最良というわけではない。
たとえば旅行者なら匿名の存在でいられるが、ラリベラの私には無理である。挨拶するのも嫌なときがあるのに、村人はいつも「フミコ」、「フミコ」と愛想よく話しかけてくる。
「呼びとめないで。しかも私はフミコじゃない」
そんな心の声は届かず、彼らはうるさく純粋に話しかけてくる。このごろは耐えかねると、子供には威嚇している(獣みたいと自分でも反省しているが、これが結構、効くのだ)。そんなことも自分に余裕があれば、なんてことはないのに、余裕が余裕を生めないばかりに優しくもなれない。
それから言語の壁。エティオピアに来て半年が経つが、アムハラ語でゆっくり話してもらえると大意はわかるようになった。でも村人同士の会話には全くついていけない。意味は予想して理解している。挨拶やたいしたことのない会話なら何とかなるが、その先にゆくと壁が立ちはだかる。
彼らにとっては英語が母国語ではないので、アムハラ語のほうが気持ちや感情がすーーーっと流れてゆくのがわかる。まだこうして日本語で文章を書くようには話せぬため、私の思いは流れてゆかず、不完全燃焼がつまったまま。話せるようになりたい。そして聞けるようにも"。
「楽園」にはデメリットがつきものだし、それと上手くつき合ってゆく方法を見つけさえすれば、「楽園」は本当に楽園になるかも知れない。今日も村での時間は、何も変わることがなく、いつもと同じように朝が来て、昨日と違うことは何もなく、いつの間にか日が暮れて、空には星が瞬き、月は白く光る。そんな風に生きて、そんな風に死んでゆく。
私は優しくなれないのに、村の人は皆、優しい。それは彼女がのこしてくれたもの。「フミコ」と呼ばれる度に、笑顔で挨拶を交わしていた彼女の名前は、熊田富美子という。
|