イラク戦争とエチオピア

 ところがムッソリーニは、イタリアがエチオピアに侵攻しても、英仏は黙認すると読んでいました。1935年の10月、イタリア領ソマリアから国境を越えて、エチオピア侵攻が始まります。ハイレセラシエ一世(エチオピア皇帝:在位1930-1974)は、自ら国際連盟に赴き、加盟国が一致してイタリアの蛮行を阻止するように迫りました。皇帝の演説に動かされた国際連盟は、イタリアへの武器禁輸を柱とする経済制裁を決議しましたが、英仏の国内で経済制裁に慎重な意見が根づよかったこともあって、ファシスト・イタリアは国際連盟を無視します。

 国際連盟や英仏の世論が弱腰であったのは、それなりの理由がありました。エチオピア侵攻に先だつ1933年、大日本帝国が国際連盟を脱退して満州侵攻に踏み切り、そして同じ年の10月にはナチス・ドイツも連盟を脱退しました。だから国際連盟には、ここでイタリアに圧力をかけすぎると、日本やドイツを追って脱退してしまう、という妙な遠慮があったのです。

 エチオピアは1936年から41年までイタリア軍の占領下におかれたあと、英国軍によって解放され、皇帝がアジスアベバに戻りました。1945年に国際連合が設立されたとき、エチオピアは、51の創設国(original member states)のひとつでした。つまり、国際連盟のときと違って、エチオピアは後からお願いして入れてもらったのではなく、国際連合をつくった国のひとつだった、ということです。

 ところがハイレセラシエ皇帝が、国際連合を信頼していなかったことは、そのあとのエチオピアの外交政策をみれば歴然としています。1963年、ハイレセラシエ皇帝をはじめとするアフリカ諸国の指導者の努力で、アフリカ統一機構(OAU)が設立されました。アフリカ諸国が団結して、植民地主義に対抗しようというわけです。OAU本部はもちろん、ハイレセラシエ皇帝のいるアジスアベバにおかれました。

 他方でエチオピアは、1950年に始まった朝鮮戦争に、兵士を派遣しています。私が思うには、2003年のイラク攻撃にたいして賛成を表明したエチオピアの同盟外交の起源は、ここにあります。つまり、1923年に国際連盟の加盟国としてむかえられながら、最後は大国外交のなかで無視され、ファシストに蹂躙された貧しいアフリカの国が、戦後の国際社会のなかで、どう生きぬいていくか。卓越した外交手腕をもつハイレセラシエ皇帝は、戦後世界に台頭する覇権国アメリカとの同盟、それも国際紛争で血を流す同盟関係に、エチオピアの将来を賭けたのです。

 こうして見ると、国際連合やOAUの名誉ある創設国エチオピアが、2003年3月、真っ先にイラク攻撃を支持したのにたいして、OAUが設立されたときには存在すらしなかった(つまりポルトガルの植民地だった)アンゴラが、非常任理事国として中立を守りとおしたのは、決して偶然ではなく、むしろ矛盾した国際社会の断面を、率直に映しだしているように思われます。

 それはそうと、祖国防衛とは無関係な朝鮮半島で戦うことを、エチオピアの兵士がどう理解していたのか。それは知る由もありませんが、彼らは戦線で勇敢に戦い、120名が戦死したと記録されています。朝鮮戦争から帰国した退役兵士たちは、首都の一角に小さな土地を与えられ、わずかな年金で貧しい暮らしをしていると聞きます。

 エチオピアの独立を守りとおしたハイレセラシエ皇帝は、多くの国民に尊敬され、畏れられていました。しかし皇帝は、国内の封建的な大土地所有制を改革することに失敗し、1974年の革命でついに失脚します。国民が飢えているのに、皇帝は愛犬に肉を与えている。そんなポスターが町じゅうに張りだされて、人びとの怒りをあおったそうです。