イラク戦争とエチオピア

エチオピアの選択

 イラク攻撃が始まるまえ、アンゴラという国がにわかに注目されたのを、覚えておられるでしょうか。この国はアフリカ大陸の南のほうで大西洋に面しており、面積は日本のおよそ3倍、人口はおよそ1000万人。1975年から続いていた内戦が、昨年ようやく終結したそうです。経済と社会の復興のため、国際社会の援助に頼る事情はエチオピアに似ています。

 アンゴラが注目されたのは、たまたまこの国が、安保理の非常任理事国だったせいです。イラク攻撃の是非をめぐって安保理の意見が割れたとき、貧しいアンゴラはまっさきにアメリカを支持するだろうと考えられていました。というのもアンゴラにとって最大の援助国であるアメリカが、経済援助の増額を約束することは確実だったからです。ところがアンゴラは、常任理事国のフランス、ロシア、中国ほど明確に意思表明しなかったものの、中立(つまり実質的には、イラク攻撃には賛成できないという態度)を保ちました。

 というのもアンゴラには、経済援助のほかに考慮すべき事情があったのです。非常任理事国の10カ国のうち、3カ国はアフリカ大陸から選ばれることになっています。つまり安保理は、国際政治上の重要な決定にアフリカ諸国の声を届ける、数少ない機会です。そしてアンゴラはそこに、アフリカの代表として参加しているのです。

 植民地支配を経験したアフリカでは、覇権主義に対する警戒がたいへん強く、これは政府、知識人、民衆の意見が一致するところです。かいつまんでいえば、欧州の人たちはかつて、暗黒大陸を文明化するという使命を掲げて、アフリカ大陸の支配に乗りだした。しかし、植民地支配のもとでたいへんな屈辱を味わったアフリカの人びとは、多くの犠牲を払って独立を達成した。そんな歴史をもつアフリカから見れば、イラクの人びとは独裁の苦しみを味わっているかもしれないが、それはイラクの人びとが先頭にたって解決せねばならないと思われる。アンゴラは、そういったアフリカ大陸の意思を、安保理で表明する立場にあったわけです。またアンゴラがそうすることによって、貧困や紛争に苦しむアフリカ諸国は、国際社会にたいして、ぎりぎりのところで威厳を示すことができたのです。

 さて、アンゴラの話はこれくらいにして、エチオピアに目を向けたいと思います。ブッシュ大統領が、イラク攻撃の同盟国をはじめて公表したとき、そのなかにエチオピアとエリトリアの名前がありました。逆にいうと、50をこえるアフリカ諸国のなかで、真っ先に手を挙げたのはこの二ヶ国だけだった。

 アンゴラの選択が、植民地支配を経験したアフリカの威厳だったとすれば、アフリカで唯一、植民地支配を受けず、独立を守りとおしたエチオピアの選択は何だったのか。アフリカ大陸が、ヨーロッパ諸国によって分割され植民地とされたのは19世紀の後半のことです。このときエチオピアは、有名なアドワの戦い(1896年)でイタリアの侵攻を退けました。イタリアは、(エリトリアを植民地にする代わりに)エチオピアの独立を認める、という条約を結びました。これが独立国家エチオピアの礎になったのです。

 しかしイタリアはエチオピアへの野心を捨てず、ムッソリーニの率いるファシスト党が政権を握ると(1922年)、エチオピア侵攻への気運が高まります。ところが1923年、エチオピア植民地化の危機はふたたび遠のいたかに見えました。イタリアのさまざまな嫌がらせにもかかわらず、エチオピアが国際連盟に加入をはたしたのです。これはエチオピアが、欧州諸国と並ぶ独立国家として、国際社会から正式に認められたことを意味しました。

 第二次世界大戦まえの世界で、列強の侵攻を退け、国際連盟に加入を果たしたエチオピアは、アフリカの希望そのものだったわけです。つづく>>