人びとと歴史

革命が村にやってきた(1)

西真如(地域社会論)

土地を農民に (Land to the tiller)

ガシェ・アフマドが、アジスアベバにやってきた。ガシェ・アフマドは僕の親友の叔父にあたる人で、チャンチョという村に住んでいる。アジスアベバから南へ、バスで半日ほどゆくとフィテという町があるが、そこから一時間半ほど歩いたところに、チャンチョ村はある。
ガシェ・アフマドは僕の家に入るなり「大きな家だな。でもわたしの家に比べたら、ちょっと感じが良くない。田舎の家に優るものはないということだな」と言った。僕はチャンチョ村を訪れると、かならずガシェ・アフマドの家にやっかいになることにしている。彼の家は、山の麓のメイズ畑のなかにある。泥壁の、丸い藁葺きの家である。その家ではガシェ・アフマドとその家族、そして彼の牛や山羊が一緒に眠る。
部屋でコーヒーを飲みながら天気の話などをしていると、ガシェ・アフマドはいつの間にか、昔話を始めた。ガシェ・アフマドの父はスルガガという。まだ皇帝がエチオピアを治めていた頃のこと、県知事と村役人がぐるになって、スルガガの土地を取りあげようとしたことがある。それでスルガガとガシェ・アフマドが、親子二代にわたって役人たちと争った話である---。

カプテン・ダムセという封建領主がいた。彼は皇帝から与えられた広大な土地と、たくさんの小作人を持っていた。また彼は当時、ウォリソ県の知事でもあった。あるとき彼は、チャンチョ村を流れるフルフロ川のほとりに、水車式の製粉所を作ろうと考えた。製粉所は儲かる商売だ。しかしフルフロ川のほとりには、畑が広がっている。県知事で領主のダムセとはいえ、自分の商売のために農民の土地を取りあげるわけにはゆかない。

ダムセがどうしたものかと思っていると、ごまを擂るのがうまい村役人は知事の考えを察してこう言う。「チャンチョ村の農民たちは、いつになったら文明の恩恵を受けられるのだろうかと話しています。領主であるあなたが村に文明をもたらしてくださるよう乞い願っています。あなたが製粉所を作ってくださり、そして女たちが石臼で粉をひかなくても良くなる日を待っています」。それでダムセは農民たちの願いを慈悲深く聞き入れて、製粉所をつくってやるということになった。下々の願いに応えてやるのが良い領主であり知事というものである。

ところでわたしの父のスルガガは、フルフロ川のほとりに土地を持っていた。製粉所を作るために選ばれた土地は、スルガガのものであった。スルガガは、大事な土地をくれてやるわけにはいかないと言い張った。困った村役人は、上司である郡役人にこっそり相談した。そこで郡役人は言いがかりをつけてスルガガを牢に入れ、そのうえ食糧の差し入れを禁止した。その頃の牢は、食事の提供などしない。身内が食糧を差し入れてくれなければ、スルガガは飢え死にしてしまう。「死んでしまうくらいなら土地を渡したほうがよかろう」と皆が勧めるので、スルガガもあきらめた。

しかしダムセ知事も、ただ土地を取りあげるというのでは体面が悪い。そこで知事は、スルガガとのあいだに土地を借りる契約を結ぶことを提案した。向こう50年のあいだ、年10ブルで製粉所のために土地を貸すという契約である。提案と言っても、スルガガが拒否すればまた牢に入れられる。それで契約が結ばれ、製粉所が作られたが、ダムセは契約の10ブルを払わなかった。

さてスルガガの村にはカシムという農民がいて、彼は村役人に地税を納める係だった。土地の登記などない時代のことである。納税係は、あの人の地税が何ブル、この人の地税が何ブルなどといった説明なしに、集めた金をまとめて村役人に納めてしまうのである。村役人もそんな面倒なことは尋ねないで、徴税係宛に領収書を発行する。

だから製粉所の土地は、ほんとうはスルガガのものなのに、役所の帳簿の上では、カシムがその地税を支払ったことになっている。カシムはそれを良いことに「製粉所が建っている土地はわたしのもので、スルガガは自分の小作人にすぎない。なのにスルガガは、あたかも自分の土地であるかのように偽ってダムセ知事と契約を結び、年に10ブルを受け取っている」と役所に訴えでた。郡役人は、カシムの訴えを認めた。その土地は、はじめからスルガガのものではないというのだ。

ところでカシムが、このような訴えを起こしたのには訳がある。カシムは、自分の娘を村役人に嫁がせていた。カシムと村役人は、親類の間柄というわけだ。つまり村役人とカシムはぐるになって、県知事のために、スルガガの土地を取りあげようとしていたのである。

当時のエチオピアは、国の下に州、県、郡の順番で地方の役所が置かれていた。また郡役人の下には村役人たちがいて、農民たちを治めていた。州や県の知事は、貴族の出身者が中央から派遣されるのがふつうであった。他方で郡役人は、その地域の有力者が指名された。郡には裁判所が設置され、罪人や農民のあいだの争いを裁いた。村役人は、徴税係を使って税金を集めるのが主な仕事だった。
ダムセは県知事という、高い地位にあった。それが農民の土地を取り上げたとなっては、彼の人望が下がるであろう。それでダムセ知事は、郡役人や村役人、それに村の徴税係まで使って、自分の手を汚さずに土地を得ようとしたわけである。ガシェ・アフマドは話を続けた。

スルガガに残された道は、アジスアベバにのぼってシェワ州の裁判所に訴えることであった。というのもスルガガが訴える相手は、表向きにはカシムだが、そのうしろでは県知事が糸を引いている。だから県のうえにある州の裁判所でなければ、公正な判決は望めなかった。

しかしその頃、チャンチョ村からアジスアベバに行くためには、二日がかりでウォルキテの町まで歩き、三日目にバスに乗って、ようやくアジスアベバにたどり着くのだった。アジスアベバは遠く、スルガガは文字も読めない貧しい農民だった。県知事は、スルガガがアジスアベバまで出かけて訴えを起こすなど、思ってもみなかっただろう。

ところがスルガガの親類で、マルカートに店を持つ裕福な商人がいた。彼はスルガガに「寝るところと食べものの心配は要らないから、アジスアベバにきて訴訟を起こしなさい」と勧めた。それでスルガガは、アジスアベバで訴訟を起こす決心をしたのである。

スルガガとカシムはアジスアベバに滞在して、裁判所で争うことになった。裁判が始まって間もない頃、ふたりの争いが「アブレトの聖者」の耳に入った。アブレトの聖者は、チャンチョ村からさほど遠くない村からでたイスラム聖者で、その頃にはエチオピアじゅうに名を知られて、アジスアベバにも大きな家を持っていた。

「アブレトの聖者」はもちろんチャンチョ村でも、たいへん尊敬されていた。聖者は、そのチャンチョ村の農民たちが裁判所で争っていることを残念に思った。農民たちはたいてい、公正な判断をくだすことにかけては、裁判所などよりも聖者のほうが優れていると信じているはずだった。それで聖者は、ふたりを自分の家に呼んだ。

ところが約束の日の朝、カシムは知り合いの商人の車に乗って現れ、スルガガに「俺はもう村に帰る」と言った。しかしそれはカシムの計略だった。カシムはスルガガと分かれると、すぐに引き返して聖者の家に行った。そしてカシムは何食わぬ顔で、聖者と一緒にスルガガが現れるのを待った。ずいぶん待ってから、「スルガガは、きっとやましいところがあるから、聖者さまの前に現れないのでしょう」と、カシムは聖者にそういって、聖者の家を出た。

スルガガはというと、カシムが村に帰ってしまったと思って安心し、家でゆっくりと支度をしていた。そして午後になって、ようやく聖者の家を訪れた。聖者はスルガガに「なぜ遅れてきたのか」と尋ねた。スルガガが事情を話すと聖者は、別の日にもういちど、ふたり揃って来るように言った。

しかしその約束の当日、こんどはカシムが姿を現さなかった。聖者はまた別の日に来るように言ったが、カシムはまた姿を現さなかった。カシムは裁判所で嘘をつくことはできても、聖者のまえで嘘をつくことはできない。カシムとスルガガが揃って現れたら、聖者はきっと、カシムに訪ねるであろう。「その土地はお前のものであると誓うか」。もし偽りの誓いをすれば、カシムには恐ろしい呪いがふりかかる。

だからカシムは聖者の前に現れなかった。そうこうするうちに貧しいスルガガの金が尽きて、村に帰るのを待っていたのである。しかしカシムがなんども約束をすっぽかすのを見た聖者には、だいたいの事情がわかったに違いない。

とうとう聖者は、カシムがいないところでスルガガに尋ねた。「その土地は、本当におまえのものだと誓えるか」。それでスルガガが「あの土地はわたしの祖先から受け継いだものです。わたしは真実を言っています」と誓うと、聖者は「真実がおまえとともにあるように、アッラーがおまえの土地を護るように」と言ってスルガガを祝福した。

スルガガは喜んで、聖者に敬愛の口づけをしたいと思ったが、農民のスルガガが聖者に触れるなど恐れおおいことだ。それでスルガガは聖者の家から出ると、前に停まっていた聖者の自動車に口づけをした。とはいえ、自動車に口づけするところをアジスアベバの人に見られたら、馬鹿な田舎ものだと思われるかも知れない。それで身にまとっていた布で自分の顔を覆うようにして、自動車に口づけしたのである。

「これはわたしが、小さなこどもだった頃の話だ」とガシェ・アフマドは言った。「わたしは学がないから、それが何年まえのことだったか数えたりする習慣がない。父の裁判が暦のうえでいつのことだったか知らない。まして父の時代の農民は、文字を読めるものすらいない。役人に紙切れを見せられただけで、何が書いてあるかもわからないままに震え上がるような時代だった。そのような時代に遠くアジスアベバまで行って役人と争った父のことを考えると、いまでも心が痛むのだ」
スルガガが偉いイスラム聖者の祝福を受けたことは、すぐチャンチョ村に伝わった。ムスリムであるカシムや村役人はもちろん、キリスト教徒である県知事でさえ、「アブレトの聖者」の祝福に逆らうようなことは恐ろしいと感じていた。スルガガの土地について、とやかく言うものは居なくなった。しかし知事は諦めたわけではなく、ずっと後になってまた計略をめぐらすのである。ガシェ・アフマドは話を続けた。

わたしは13才か14才になると、アジスアベバに出稼ぎに出るようになった。その頃には、キベトの町までバスが入るようになっていた。チャンチョ村からキベトまでは、一日で歩ける距離である。三日がかりでアジスアベバにでた頃に比べると、ずいぶんと便利になっていた。キベトの町にくるのは、マモカチャという金持ちのバスだった。その頃、エチオピアでバスを買うようなひとは滅多にいない。アジスアベバから地方へ行くバスはほとんど、マモカチャかマコネン・ネガシ、それにカニェウ・シアラカと呼ばれる、三人の金持ちのうちの誰かの所有物だった。

わたしがマルカートで仕事を始めたとき、最初の月給は3ブルだった。仕事といっても子供の遣い走りである。主人や使用人に言いつけられて、ちょっとした伝言や用事のために、店から店へ走り回るのだ。そのうち少しは商売を覚えると、月給もだんだんあがってゆき月に20ブルもらうようになった。

しかしいつまでも遣い走りではつまらない。ひとの商品を預かって、マルカートで布地や服を売り歩く仕事もしたことがあるが、ついに自分の店を持つほどは稼げなかった。商売の才能がなかったのだ。それでまた村に帰って、農業を続けることにした。

ガシェ・アフマドの村では、たいていの若者は町にでて、商人になることを志す。お金をもうけてアジスアベバに店を構え、大きな家を建てて、車を買うのである。しかし成功しなかった者は、村に帰って農業を続けることになる。
ガシェ・アフマドは言う。「いやもう畑仕事なんて、疲れるだけで何にも良いことがない。こうしておまえと話をしているあいだにも、村で雨が降っているかどうか心配で仕方がないよ。去年の今頃は、良い雨が降っていたのに、今年はどうも良くない。月曜に村をでてきたときは、メイズが枯れ始めていたよ。今日までに雨が降っていなければ、メイズはすっかり枯れてしまうだろう。まったく、農民というのは心配事ばかりでひとつも良いことがない」
僕は「アジスアベバでこれだけ雨が降っているのだから、村でももう降り始めているに違いない」と言ってガシェ・アフマドをなぐさめた。ガシェ・アフマドは気をとり直して話を続ける。

スルガガがアブレトの聖者の祝福を受けてから、二十年も経った頃だろうか、スルガガは歳をとって寝込んだ。そしてあの革命が起こる二年ほどまえに、死んでしまった。製粉所の土地は、スルガガの息子であるわたしと、わたしの兄のスレイマンが相続した。もちろんダムセ知事との契約も、わたしたちが相続したのである。

スルガガが死んでからしばらく経ったある朝、県知事の製粉所がすっかり壊されているのを、村人が発見した。すぐに取り調べが始まったが、村人は皆、土地を取りあげられたのを恨んでいる者のしわざに違いない、と証言した。つまりわたしのせいだ、というのだ。

わたしが製粉所を壊していないことを、ほんとうはみんな知っていた。でも県知事や村役人のことを恐れて、真実を言うことができなかったのである。まじない師が呼ばれて、犯人探しの儀式まで執りおこなわれたが、わたしに不利な証言ばかりがでてきた。

村役人は、「アフマドが製粉所を壊した犯人だ」と郡役人に報告した。そして郡役人は、罰としてわたしの牛を没収した。そのままにしておけば、製粉所の土地も取りあげられてしまっただろう。わたしは兄のスレイマンとともに、アジスアベバへ向かった。

その頃、アジスアベバにはバルギチョという名の親類がいた。彼は裕福な商人で、字も書くことができた。バルギチョは「ウォリソ県チャンチョ村のアフマド某という農民が、郡役所の不公正な扱いによって苦しんでいる」というような趣旨の手紙を書いて、シェワ州の役所に届けたところ、州の役人は心を動かされたと見えて「郡役所は農民にたいする不当な扱いを止めるように」という手紙を書いてくれた。わたしとスレイマンはその手紙を持って村に帰った。州の役所が書いた手紙のおかげで、郡役人はわたしに牛を返すほかなかったし、わたしの土地にも手出しできなかった。

ところで県知事は、わたしが州の役所から手紙をもらったと聞いて不安になった。もとはといえば、県知事がアフマドたちの土地を取りあげようとしたことが騒ぎの原因である。そのことが州の役所に知られてしまったら、出世に響くかも知れない。何とかまるく収めたいと思った知事は、わたしとスレイマンを家に呼んだ。

県知事は、羊を一頭さばいてわたしたちを歓待した。何日か飲み食いさせたあと、知事は言った。「製粉所を壊したのはおまえたちであるはずがない、きっと村の悪い者のしわざだろう。ついては、ふたつの選択肢がある。村の者たちは連帯責任により皆で金を出しあい、壊された製粉所の代償として、所有者であるわたしに支払わねばならない。それがいやならばあの土地に、わたしが製粉所を再建することを許可して欲しい。もちろん土地の所有者であるおまえには、契約の10ブルはきちんと支払うつもりだ。だからおまえは村にゆき、わたしが与えた選択肢について村人とよく話し合って欲しい」

そこでわたしは村に帰った。そして村の農民たちと話し合ったが、もちろん彼らに払う金などあるはずもなく、県知事にどうぞ製粉所を再建してくださいと言うほかない。それでわたしはもういちど、知事のところにでかけて行ったが、知事は不在であった。仕方ないのでそのままチャンチョ村に帰ってきた。そのときのことだ。新しい政府が「土地を農民に(land to the tiller)」と布告したのを知ったは。

そしてダムセはわたしの土地を取りあげるどころか、彼が所有していた広大な農地と家屋敷を、新しい政府に没収されてしまった。

エチオピアに革命が起こったのは1974年のことである。ガシェ・アフマドの話からもわかるように、皇帝がいた頃のエチオピアでは、封建領主が広大な土地を所有しながら、同時に県知事や郡長の地位について行政権を握り、農民を苦しめていた。
革命の前夜、アジスアベバの学生たちのあいだでは「エチオピアがいつまでも貧しいのは、支配層が封建的な大土地所有制度を維持し、農村の富をすべて吸い上げてしまうからだ」という議論がたかまった。学生は「土地を農民に」というプラカードを掲げて行進した。
1973年から74年にかけて、エチオピア北部のウォロ州で大きな干ばつが起こると、皇帝はたくさんの農民が飢え死にしていることを隠そうとした。ウォロ州から食糧を求めて、アジスアベバへと歩き始めた農民たちは、幹線道路の上で兵士たちによって追い返され、死んでいった。
そしてアジスアベバでは、皇帝が犬に肉をやっている写真が印刷されて、街中に張り出された。「農民が飢えているのに、皇帝は犬に肉を食わせている」。学生のデモは激しさを増し、街路では投石と発砲が繰り返された。その混乱のなかで、軍の下級士官たちが結成した軍事委員会は皇帝を幽閉し、権力を掌握したのである。
軍事委員会は、すべての農地を国有化する法令を公布した。「土地を農民に」。これまで封建領主が所有していた農地はすべて国の所有となった。
ところが、ガシェ・アフマドはまだ安心できなかった。というのも新しい政府は、領主たちから取りあげた農地の耕作権を、農民たちに配分するという難しい作業を進めていたからである。耕作権は、原則としてその土地を耕作していた小作農に与えられることになっていた。だが上手く立ちまわって、ほかの農民から耕作権をよこどりしたものも、少なくなかった。「カシムは執念深く、製粉所があった土地の耕作権を狙っていた」とガシェ・アフマドは言う。
ところがまもなく、ガシェ・アフマドは農民協会の委員に選ばれた。農民協会とは、社会主義エチオピア政府が、国土の隅々にまで革命を執行するための組織である。ほかにも革命エチオピア青年協会や、革命エチオピア女性協会などと呼ばれる組織が、エチオピア全土で結成された。
農民協会には、農地の耕作権の配分を決めるという重要な任務が与えられた。チャンチョ村の農民協会は、製粉所のあった土地の耕作権を、ガシェ・アフマドに配分する決定をおこなった。製粉所は再建されず、それから25年もたった今日まで、ガシェ・アフマドは誰にもじゃまされることなく、その土地を耕してきたのである。
そしてガシェ・アフマドは、最後にこう言った。

いま思えば、「アブレトの聖者」の祝福があったからこそ、スルガガもわたしも、土地を取りあげられずにすんだのだ。アッラーが土地を護ってくださった。それに、スルガガを苦しめた徴税係のカシムが、村役人のところへ嫁にやった娘は、ついに子どもを産まなかった。

エチオピアでも、女性が子どもを産まないのはなにも間違ったことではない、と考えるひとが少しずつふえてきている。しかし農村では、女性が子どもを産まないということは、彼女にとっても、彼女の夫や両親にとってもたいへんな不幸であると考えられてきた。そして徴税係のカシムは、娘とともにその不幸を味わった。ガシェ・アフマドにとってみれば、これも「アブレトの聖者」がスルガガに与えた祝福の力だと思えるのである。