2001年2月 家畜診療による農村開発への貢献
エチオピアで10年にわたって農村開発に取り組んできた獣医師、野田浩正さんの活動報告がありました。なお野田さんの活動についてもっと知りたい方は、野田農協のページをご覧ください。
チェハ家畜診療プログラムについて 野田浩正(獣医師)
(1) 場所と背景
チェハ家畜診療プログラムは、首都アディスアベバから南西に向かうジンマロ−ド沿いに154km下ったウォルキッテから、更に25kmほど農村部に入った所にある。プログラムがカバーしている地域は、南部エチオピア人民州グラゲ県(ゾーン)ゴロ郡(ワラダ)と、オロミア州西ショア県アメヤ郡にまたがっている低地(標高1500m)から中高地(1900m)のなだらかな丘陵地帯である。
この地域は、かつて定住農耕民のいない放牧地ないしは野生動物の棲むブッシュであった。社会主義政権が始まり、強制移住政策のため、北部ウォロ地方や南部カンバタ地方等の人口過密地域からの移住が実施され、未開墾地帯に集団農場が形成された。
この地にも1984年から85年にかけての大干ばつが訪れ、飢饉と病気流行のため多くの被災者がでた。そこで、国際的な民間援助団体であるFood
for the Hungry International(FHI)が、この地での緊急救援を開始した。食糧配給、医療援助、衣類配給を実施し、1年後復興支援へと方針転換し、植林や道路整備等の労働を課し、その報酬として食糧を配布するというFood
for workを実施するようになった。
1990年より総合農村開発ということで村人の自立を期し、Food for workは実施しながらの農業改善、保健衛生啓発、飲料用地下水開発の3つのプログラムが始まった。FHIのプロジェクトによって大規模ながら一時的な飢餓からは脱出したものの、貧困から脱出して自立へとは向かえなかった。その理由として二つあげられる。一つはマラリアであり、もう一つは家畜のトリパノソーマ症である。
マラリアに関しては、FHIプロジェクトの真向かいにスイスのNGOが運営するワルガ診療所があり、多くの生命を救っている。しかし、家畜診療に関してはウォルキッテにしか家畜診療所がなく、農民達は財産であり労力である家畜を守ることができないでいた。
「食糧配給より、家畜診療を身近なところで」という農民達の願いを聞きつけ、1990年6月、青年海外協力隊(エチオピア、農業省)の任期終了間際であった野田浩正が同地を訪ね、診療の必要性を大いに感じ、1991年9月より、FHIの家畜診療プログラムを開始したのである。

(2) トリパノソーマ症とは
人間ではアフリカ眠り病という名で知られている。アフリカ眠り病の新患が年間1〜2万人であるのに対し、家畜のトリパノソーマ症は年間数百万頭の被害が出ているほど、家畜の被害が甚大である。
症状は、発熱、リンパ節の腫脹、被毛粗剛、食欲減退による削痩、貧血等で、妊娠牛においては流産もある。急性死をむかえるものは希で、慢性化をたどり、3ヶ月ほどの後、衰弱死する。病気の伝搬は、刺しバエの吸血によるが、その中でも、アフリカ大陸のサハラ南部からジンバブエの辺りにまで棲息するツェツェバエによるものが多い。
治療法は、もっぱらジミナゼン(Berenil)やイソメタディウム(Trypamidium)の注射であるが、10年ほど前から薬剤耐性の問題が指摘されている。予防のためのワクチンはない。疾病対策としては、治療、ハエによる媒介の防御(トラップ、ターゲット、放射線によるハエの不妊化)、による。
チェハプロジェクト地域における被害の状況:90年の訪問時、10頭の牛から採血し検査したところ、半分にトリパノソーマ原虫を検出した。当時のインタビューの記憶によると、75年頃からトリパノソーマ症の発生が見られるようになり、徐々に死に始めたとのこと。
84/85年の大干ばつで被害の拍車がかかり、86年以降は、半数の農家が農耕牛を持たない状態となった。かつてから住んでいたオロモ族は、その昔、一家で200頭も300頭も持っていたと言うが、この頃は、持っていて2-3頭という有様であった。
農耕牛が少なく、また病気に罹って死んでしまうので、十分な土地(2ha)を持っていても、その半分しか耕すことができず、十分な食糧生産がままならなかった。私自身の印象としては、道路沿いで見かける牛は皆一様に痩せており、十分な広さの土地がありながらまばらにしか耕されていない、というものであった。
(3) 実施した活動
巡回診療を軸として、牛購入資金貸出、農協の設立等を実施した。
3-1 巡回診療
診療地域が余りにも広く、診療所を設置してもそこまで患畜を連れてくるのは困難なので、車両による村々の巡回をおこなった。1ヶ月に1回ないし、2ヶ月に1回の頻度で約40の村々を網羅した。診療の実績は以下の通りである。
|
年 |
1991* |
1992 |
1993 |
1994 |
1995 |
1996 |
1997 |
1998 |
合計 |
| 巡回農村数 |
ヶ村 |
11 |
40 |
39 |
34 |
39 |
46 |
40 |
34 |
|
| 受益者延べ数 |
人 |
904 |
6759 |
10087 |
12327 |
20223 |
15028 |
8840 |
8708 |
82876 |
| 治療内容 |
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|
| トリパノソーマ症 |
症例数 |
1324 |
19354 |
39551 |
35220 |
60606 |
45636 |
25230 |
25958 |
252879 |
| 腸管寄生虫駆虫 |
症例数 |
312 |
67 |
914 |
1411 |
2094 |
1639 |
857 |
1237 |
8531 |
| 感染症、外傷等 |
症例数 |
26 |
110 |
387 |
626 |
889 |
845 |
458 |
976 |
4317 |
| 眼病 |
症例数 |
0 |
46 |
87 |
108 |
118 |
96 |
128 |
90 |
673 |
| その他 |
症例数 |
2 |
7 |
57 |
525 |
294 |
303 |
528 |
467 |
2183 |
*:1991年は10月からの実績
8年間に25万頭余りの診療は、エチオピア国内では他に類を見ないものである。
3-2 ツェツェバエ対策
1991年から92年にかけて、トラップを設置し基礎調査を実施したが、農業省の誤解を招き、中止した。96年12月より、牛体に薬剤散布するターゲット法を採用し、農民に奨励。薬剤のコストが高くつくので十分に普及していないが、その成果に関しては十分な理解を得ている。
3-3 農耕牛購入資金貸出
(社)協力隊を育てる会のOB支援プロジェクトからの支援(93、94年)により、土地を持っているが家畜を持たない農民へ、農耕牛を購入するための資金の貸出を実施した。返済金を他の農民に貸し出し、200人余が農耕牛を購入した。
3-4 農民セミナー
初歩的な家畜衛生と畜産技術向上のため、農業省の獣医畜産系職員を講師に講習会を実施した。後に、農協運営のための講習会になった。
3-5 家畜診療所建設
家畜診療活動の地域住民への運営委託を期して、2ヶ所に家畜診療所を建設した。
3-6 農協の設立
将来の家畜診療業務の継続のため、農民を組織化し、農業協同組合を設立した。
3-7 製粉所建設
家畜診療所職員の給与を確保するため、地域の農民にサービスしながら収入をあげようと、製粉所を建設した。
3-8 家畜診療スタッフの有資格化
家畜診療所での診療の担い手とするため、無資格で診療補佐をしていた2名のスタッフを農業省の研修コースに参加させ、獣医テクニシャンの正式資格を取得させた。9ヶ月間の研修費は、秋山忠正氏の個人的な寄付によって賄われた。
(4) 成果
93年度の調査時で、38ヶ村で受益戸数6,522戸(人口28,846人)で受益頭数が牛だけで11,326頭であった。96年度の調査時には、40ヶ村5,917戸31,222人受益牛頭数38,402頭である。診療開始時からの受益村を個々に見ると、変化を見出せる。
たとえば、ベースキャンプから3km離れたクリト・アンド村では、93年で農家100戸(人口695人)で牛234頭が、96年では105戸(785人)の牛374頭に増えている。一方で、月々の診療頭数は、93年の頃毎月平均200頭であったが、96年になると月平均100頭ほどに減っている。診療プログラムとツェツェバエ対策によって家畜頭数が160%に増え、診療件数が半減している。
同様に、ジェッジュ村は約120戸(750人)で93年に牛242頭が96年では496頭に、フダァドゥ・アラット村は牛212頭が466頭に増加した。いずれも200%以上の増である。オッド村では、877頭が96年で1,871頭に増え、プログラム開始前に約半分の農家が牛を持たなかったが、96年で9割の農家が牛を持つようになった。牛の増加は、農耕牛としての雄牛だけでなく、雌牛の飼育も増えた。そのため、以前は見かけなかった子牛が、現在では至る所で見かけるようになった。
農耕牛の増加に伴い、農業生産も急増した。93年当時、1戸あたりの平均農地面積は2haであったが、農耕牛の絶対的不足や不健康のため1ha程しか耕していなかったようである。現在では、2haいっぱい耕すだけでなく、新しい土地の開墾も盛んになってきた。この様を喩えるならば、「以前は牛の放牧地の間々に畑があったが、今では畑の間々に放牧地がある」といえる。正確なデータはないが、穀物生産は、診療プログラム以前の3倍以上に増加していると思われる。
1994年の雨期までは、食糧不足に陥った農民たちが食糧を求めてチェハプロジェクト・ベースキャンプの門前に列をなしていたのだが、95年以降は全く来なくなった。その頃までにFood
for Workも徐々に減らして、穀物の配給を受ける人もわずかになったことを考えると、94年秋の収穫から、食べるに十分な収穫が得られるようになったといえる。
かつては、雨期になると自らが食べる食糧も底をついて、市場への穀物出荷はほんのわずかになるものであったが、現在では雨期にもかなりの量の出荷を見る。たとえば青空市場にやってくる買付業者のトラックの数で比較できると思われる。ベースキャンプ向かいのフィッテ村では毎週土曜日に市場が立つ。大きな市場の一つで、15ヶ村以上から人々が集まってくる。診療プログラム以前、買付けのトラックはせいぜい3台であった。それに、5、6台の4輪駆動車が客を乗せて町からやってくる程度で、農民たちは徒歩でやってくるのが普通であった。
現在では、15台、時に20台ものトラックが買付けに繰り出し、10台以上のバスが客を乗せてくるようになった。その乗客とは農民たちで、穀物を売るために村からバスの走る幹線道路まで徒歩で出てきて、そこからバスに乗って市場にやってくる。お金を出してまでバスに乗る経済的余裕がでてきたからだといえる。
市場に集まる農民が増え、出荷量増加により所得が増えたので、農民の暮らしがかなり変化してきた。農民たちに尋ねてみると、「従来、食べるだけで精一杯だったのが、今では季節毎に家族に新しい服を買ってあげられるようになった」、「欲しかったラジカセを買った」、「自転車を手に入れた」、「藁葺き屋根の家から、トタン屋根の新しい家に建て替えた」などの声が多く聞かれる。教育に関しても、「学校で勉強するよりも、牛の番や弟妹の世話をしろ」という風潮だったのが、「学校に行って、読み書きできるようになれ」と変わってきており、現にフィッテ村小学校の全校児童数が150人から99年9月入学700人へと増加した。
農民の暮らしが向上したことで、間接的に市場の食堂群も変化してきた。先程述べたフィッテ市場の食堂は、以前、藁葺きのお茶屋程度であったが、現在は4倍以上に増え、しかもトタン屋根にすべて変わった。エチオピアの農村で電気水道の供給を受けているところはほとんどなく、チェハ地方でも同様であるが、フィッテ市場とダルゲ市場には電灯が点くようになった。個人で発電機を持ち、電気を供給しているとのことである。このようにして、農民の暮らしが向上することによって、その地域全体に様々な変化を来すことがわかる。
農民たちも、新しい土地の開墾のために、お金を払ってトラクターを雇うようになってきた。やぶをはらって、石がごろごろしているような荒れ地を開墾するのに、牛の力では十分でない。そのため、トラクターに対する需要が高まってきたのである。こうした期待と、チェハ総合農村開発プロジェクト終了後の将来の展望を考えて、在エチオピア日本大使館の小規模無償(草の根無償)プロジェクトにトラクター購入を申請し、グラゲ県ゴロ郡ジェッジュ村に設立された農業協同組合に、97年6月にトラクターを提供した。
このようにして、地域農民の経済的向上だけでなく、援助依存の状態から自立へと意識が変わってきている。99年1月からは、獣医テクニシャンの資格を取らせた2名を円満退職させ、アメヤ郡に設立したノダ農協とゴロ郡のジェッジュ農協に派遣し、診療を開始させた。それぞれの農協は月給を支払い、これまで順調に運営されている。98年9月をもって、野田浩正自身は診療の最先端から退き、エチオピア人だけの診療を見守っているが、問題なく経過している。
(5) 今後の課題
農協による家畜診療サービスは、エチオピア国内で初めての試みである。薬剤費用+αという診療費だけでなく、一方はトラクターによる耕作サービス、他方は製粉所からの収入を補助に、農協職員の給与を支払い、徐々に設備投資もしながら、組合員も利潤を得ることによって、経営が安定する。診療の質を保ちながら、経営が安定するようしばしのフォローアップが必要である。
他のプログラムが98年9月末で終了したように、このプログラムも2000年3月いっぱいで終了する予定である。しかし、フォローアップの必要性と、ゴロ郡の隣のチェハ郡からの熱烈な要請により、チェハ郡オーディトゥ村を中心とする6ヶ村での家畜診療プロジェクトを開くことになった。新しいプロジェクトを実施しながら、ゴロ郡とアメヤ郡の農協支援を続けていく所存である。
(6) 活動経費
正確な経費は把握していない。91年以来99年まで、年間800万円として7千万円以上を費やしていると思われる。主要な支援元団体は、日本国際飢餓対策機構、郵政省国際ボランティア貯金、在エチオピア日本大使館(草の根無償)、(社)協力隊を育てる会であり、また多くの意識ある方々に支えていただいた。
2001年11月25日
(野田さんの活動についてもっと知りたい方は、ノダ農協のページをご覧ください)