アムハラ語講座

隙間風と電気

二宮雅信

学生の時代に、京都の農村を回ったことがあります。京都の方に連れられて、知人のよく知った小さな居酒屋さんに入りました。カウンターに十席、座敷に三卓程度の店で、女将さんと手伝いの女性で切り盛りされている小さな居酒屋でした。秋風の強い寒い日であったのを覚えていますが、我々がカウンターに座していて、止め処もない話をしていると、別の客が三人ほど入ってきました。そのうちひとりは顔見知りの常連のようで、女将と親しそうに挨拶を交わしました。すると女将は、「今日は、大変冷えますね。なんや戸口から隙間風が入ってくるのか、ますます寒くなってきました」と京都弁で応対しました。

しかし当時の私は、まったく京都を知りません。なんせ貧乏学生でしたし、本当に寒いと私も感じたので、「ちょっと、戸が開いてないか見てきます」と言って、戸口がしっかり閉まっているのを確認して、女将さんに「どっから風が入ったのでしょう。戸口はちゃんと閉まっていましたのに」と返事をすると、女将さんはニヤニヤして「お客さんはどこからおこしなさったのですか」と尋ねるので「名古屋生まれで、今は北海道」と返答をした記憶があります。ほどなく、あとからきた客人が「ほな、また来るから」と出て行ってしまいました。あまり飲むわけでもなく、食べるわけでもなく。

その時、なにか私には勘のようなものが働き、「隙間風」という言葉は、別の意味があって使われたと思いました。知人に尋ねると「お前の無神経さには、ひやひやしたよ」と笑われ、女将さんが「隙間風とは入ったら嫌なもの、つまり嫌いな客」だと説明してくれました。

私はその後、エチオピアで仕事をするようになりました。1988年にウォルディアという町の木賃宿にある、居酒屋に出向いたときのこと。私と相棒のエチオピア人が、止め処もないことを話していると、隣の円卓に座していた老人三人が、どうやら我々のことを話題に話していると察しました。その中で老人の一人が、「電気に見入って、電気を触ろうとしているのではないか。これが問題だ」ということを言ったようです。相棒は、この言葉に反論があったのか、しばらくして老人のところに出向いて、論争のようなものを始めました。その後のことはひとまずおいて、ここでの「電気」(mebrat) とは概ね次のような意味だそうです。

電気は、暗いところを照らすには良いものだが、しかし電気に見入ってしまうと、我を忘れてそれに触れてしまうかも知れない。電気に触れたら最後、感電死するだろう。そして、外国人は「電気」のようなものだから、あまり深入りしないほうが良いのではないか。

つまり老人は、エチオピア人である私の相棒が、外国人という「電気」に触れることを心配していたのです。私は、そのような話をした老人に興味がまし、老人たちと話をさせてくれと相棒に頼みました。相棒は仰天して「喧嘩をしてはいけない」と私を宥めたのですが、私はもとより喧嘩をする気もないことを伝え、むしろ興味があるといったら、その席を設けてくれました。老人にアラケ(蒸留酒)をご馳走しながらわけを聴いてみると、次のような話をしてくれました。

「もとより エチオピア人は、聖書とは切り離せない関係にある民であり、その聖書には、見知らぬ者をもてなしなさいと書かれている。またその教えをを守ってきたことに、エチオピア人の誇りがある。」

「それでイタリアとの戦争の時には、敵の軍人は別にして、エチオピアにやってきた一般のイタリア人に対して、どのようにしたらよいのか苦慮した。というのも彼らは、気さくで善良に見えたからだ。そこで我々もイタリア人には親切にした。そして戦後も彼らは、エチオピア社会の中で生活している。」

「ところが彼らと親しく接するようになると、いろいろな問題も起こってきた。我々は居酒屋でときを過ごし、良いと思っているが、こんな居酒屋はイタリア人が持ち込んだのだ。そしていろいろな酒も紹介された。それに、酔った男を介抱する女性も、居酒屋におかせるという風習を持ち込んだ。そのため自分たちの子孫の女性は、そこに仕事を求めるようにもなってしまった。」

その夜はしかし、相棒が老人に「この外人は、どうも逆みたいだよ。外国の人だが、このエチオピアに見入ってしまったようだよ」と説明をしたようです。その後、この老人たちとは、よくウォルディアの町で楽しい談笑の時を過ごすことになりました。