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<title>その角を曲がれば雨はあがる</title>
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<modified>2008-07-09T11:13:54Z</modified>
<tagline>a weblog by nishi makoto</tagline>
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<copyright>Copyright (c) 2008, nishi makoto</copyright>
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<title>アフリカを好きになるには</title>
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<issued>2008-07-09T11:11:21Z</issued>
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<summary type="text/plain">「私は、アフリカが嫌いなんです。」と、その人は話し始めました。退職前は某有名企業で労務を担当していたという彼は、仕事でアフリカ諸国を訪れることもあったそうです。とりわけ彼が我慢ならなかったのは、ナイジェリアでした。</summary>
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<dc:subject>コメンタリー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>「私は、アフリカが嫌いなんです。」と、その人は話し始めました。退職前は某有名企業で労務を担当していたという彼は、仕事でアフリカ諸国を訪れることもあったそうです。とりわけ彼が我慢ならなかったのは、ナイジェリアでした。</p>]]>
<![CDATA[<p>この国に到着してすぐ、空港の入管職員から賄賂を要求された彼は、なぜ自分がこんな連中を相手にしなければならないのかと、何度も自問自答したのでしょう。「私はどうしたらアフリカを好きになれますか？」というのが彼の質問でした。</p>

<p>アフリカ学会という、アフリカが好きな人たちがあつまる学会があります。今年は京都で全国大会が開催されました。アフリカが嫌いだというその人は、どうしたらアフリカを好きになれるか尋ねるために、アフリカ学会へと足を運び、学会主催のシンポジウムの会場で、その質問を投げかけたという訳です。ぼくの見解を言わせてもらえば、ナイジェリアの入管職員の行動よりも、わが国の昭和ヒトケタ生まれの男性が時おり発揮するやや見当違いの行動力のほうが信じ難いのですが、それはさておき「どうすればアフリカを好きになれるか」という質問そのものは、われわれの想像力をかきたてずにはいません。</p>

<p>アフリカでは、何事も規則どおりに進まないことが多い。それは確かです。いくらアフリカが好きだといっても、規則を守らないアフリカの公務員のせいで、ひどい目にあうことはあります。ただ規則どおりに進まないということは、交渉の余地があるということでもあります。</p>

<p>ちょっと無理めの要求でも、自分がなぜそれを必要としているかを、きちんと相手に伝えることができれば、相手は納得してくれるということがある。逆に無理な要求をされたとき、なぜその要求が無理かをきちんと言えなければ、相手は納得してくれないでしょう。アフリカでは、規則がどうかということよりも、その場で相手を納得させることが重要であることが多いようです。</p>

<p>なんて面倒なと思う人もいるでしょうが、それがアフリカの良いところでもあります。ぼくの友人は、調査に必要な機材をエチオピアに持ち込もうとして、空港の税関職員に「規則で持ち込めない」と言われたそうですが、その機材がないと調査そのものが台無しになって、彼にとって非常に残念なことになるのだということを10分間ほど力説したところ、持込を許可されたそうです。</p>

<p>そもそもすべて規則どおりに進むのがよいのかと言えば、規則どおりに進まないほうが良いこともある、ということをわれわれは知っています。例えば日本の公務員が規則を「杓子定規に考えすぎるのは良くない」ということが言わる。1995年1月17日に神戸でおきた震災のとき、スイスから派遣された災害救助犬に対して、農水省の検疫担当官が規則どおり隔離を命じたために、救助犬の活動が遅れるという事態がありました。災害救助犬が救うはずの人たち（がれきの下で救助を待っている人たち）はどうなるのか、という抗議は受け入れられなかったのです。</p>

<p>もちろん、この検疫担当官（および農水省）が間違った決定をしたという訳ではありません。また1995年の当時、災害救助犬の役割は日本ではほとんど知られていなかったし、その犬を素通りさせることで起こりうる長期的な検疫上のリスクと、目の前にある救助活動にその犬を参加させることの利益と、どちらが大きいかを判断するような材料を、彼らは何も持ち合わせていなかったでしょう。判断が難しい状況で、とりあえず規則を守るのが良いと考えるか、とりあえずその場で交渉に応じたほうが良いと考えるかは、結局のところ価値観の問題なのです。</p>

<p>つまり、こういうことです。この記事を読んだあとで、なお「検疫担当官は常に規則を守るべきだし、それが良いことなのだ」と考える人は、規則そのものの価値を信奉する人であり、したがってアフリカを好きになる可能性は全くないと断言できます。逆に「検疫担当官には気の毒だが、規則よりも交渉のほうが良い結果が得られることもある」と思う人がいたら、それは交渉の価値を信じている証拠であり、アフリカを好きになる可能性があります。</p>

<p>ついでに言っておけば、アフリカを好きになるために、ナイジェリアの入管職員を好きになる必要はありません。重要なのは、そこを通り抜けた先に広がっている世界を見ようとするかどうかだと思います。<br />
</p>]]>
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<title>リトル・ミス・サンシャイン</title>
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<modified>2008-06-09T12:29:16Z</modified>
<issued>2008-06-09T11:02:40Z</issued>
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<created>2008-06-09T11:02:40Z</created>
<summary type="text/plain">『人は見た目が9割』なのだそうです。人を見かけで判断してはいけない、とお説教しながら、見かけでしか人を判断しない人の不誠実さには、確かにうんざりさせられます。それに比べたら、見かけが9割だと言ってしまうほうが「誠実」だとすら思えます。つまり、ほんとうのことを率直に述べているということです。</summary>
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<name>nishi makoto</name>
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<email>makoto@jafore.org</email>
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<dc:subject>映画</dc:subject>
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<![CDATA[<p>『<a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E3%81%AF%E8%A6%8B%E3%81%9F%E7%9B%AE%E3%81%8C9%E5%89%B2-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%AB%B9%E5%86%85-%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4106101378">人は見た目が9割</a>』なのだそうです。人を見かけで判断してはいけない、とお説教しながら、見かけでしか人を判断しない人の不誠実さには、確かにうんざりさせられます。それに比べたら、見かけが9割だと言ってしまうほうが「誠実」だとすら思えます。つまり、ほんとうのことを率直に述べているということです。</p>]]>
<![CDATA[<p>ただしこの「誠実さ」は、最も不誠実な態度に比べたら誠実なように「見える」という話、まさに見せかけの話でしかありません。感じの良い人だと思っていたら、じつはとんでもない不誠実な人間だったという経験は（その「不誠実な人間」の役割を演じていた経験も含めて）、おそらく誰にでもあるでしょう。見かけについて語ることは、決して誠実さに関することではないのです。</p>

<p>誠実さうんぬんはともかく、また見かけに騙される人のことはともかく、見かけが損得を決するのだから、じぶんのためにせっせと見かけを磨くのだという人もいるでしょう。せっせと見かけを磨くことは、人をどれくらい幸福にするのでしょうか？</p>

<p>毎朝、鏡に向かって「とびきりの笑顔」の練習をしてから出かけるとか、歯並びの矯正は必ずするとか、喫煙しないとか、抗うつ剤を欠かさず服用するとか、加齢臭を気にするとか、感じの良い人になるためできることは、たくさんあります。</p>

<p>映画「リトル・ミス・サンシャイン」のオリーヴは、美少女コンテストに優勝するという考えに夢中になっています。ただ問題は、ミスコンに適しているとは思えない、彼女のぽっこりお腹です。10歳そこそこだから幼児体型も仕方ないのでは…と思う人もいるでしょうが、それは既に負け組の思考を体現しているということに、注意すべきです。ミスコンの出場者は、「自分磨き」の集大成としてその姿をさらすのだということを、オリーヴは理解しているのでしょうか？</p>

<p>さらに問題なのはオリーヴの家族、例えば喫煙をやめられない母、ヘロイン中毒で老人ホームを追い出された祖父、思いを寄せていた彼に捨てられて自殺未遂を起こした伯父といった人たちです。</p>

<p>この家族にあって父は、勝ち組への強い意志をあらわにしており、ビューティ・クイーンになりたいなら目の前にあるアイスクリームを我慢するように、と娘に迫ります。ところが彼の意思とは裏腹に、彼の言動と行動は、家族の解体を促進しているとしか見えません。</p>

<p>またオリーヴの兄は、そんな家族を嫌っています。なぜみんな、じぶんたちが負け組だと認められないのか、彼にはそれが許せないのです。ただし彼も、その態度とは裏腹に、誰よりも強く成功を切望しているのです。</p>

<p>あらゆる矛盾と問題を抱えた家族が一台のバスに乗って、カリフォルニアで開催される美少女コンテスト「リトル・ミス・サンシャイン」の会場を目指すのですが、安易な解決を求める観客の期待を裏切って、事態は悪化の一途をたどります。そして最悪の事態を迎えようとするときに、家族はある答えを見いだすのです。</p>

<p>せっせと見かけを磨くこと、感じの良い人になろうと努力することが人を幸福にしないように思われるときに、どんな選択肢があるのでしょうか？すべてを犠牲にして勝ち組への道を突き進むこと、すべてを投げだして負けを認めること、どちらも答えではないのだ、というのがこの映画の答えであるように思われます。</p>

<p>リトル・ミス・サンシャイン<br />
<a href="http://movies.foxjapan.com/lms/">http://movies.foxjapan.com/lms/</a></p>]]>
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<title>前髪のない神様</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jafore.org/blog/archives/2008/05/maegami.html" />
<modified>2008-05-02T13:41:37Z</modified>
<issued>2008-05-02T12:37:23Z</issued>
<id>tag:www.jafore.org,2008:/blog//4.194</id>
<created>2008-05-02T12:37:23Z</created>
<summary type="text/plain">旅先で広げた新聞に、うしろ髪のない神様についての話が載っていました。幸福の女神には、後ろ髪がない。幸運は先回りしてつかまないと、通り過ぎたあとで後ろからつかまえることはできない、というあれです。</summary>
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<name>nishi makoto</name>
<url>http://www.jafore.org</url>
<email>makoto@jafore.org</email>
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<dc:subject>コメンタリー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>旅先で広げた新聞に、うしろ髪のない神様についての話が載っていました。幸福の女神には、後ろ髪がない。幸運は先回りしてつかまないと、通り過ぎたあとで後ろからつかまえることはできない、というあれです。</p>]]>
<![CDATA[<p>そして、日本のある有能な技術者は、「女神の前髪をつかみなさい」と言うのが口癖であったそうです（2008年4月18日付産経抄）。残念ながらぼくにはその手の想像力が欠けているらしく、どうやって先回りしたらよいのか、そもそも幸運の女神がどんな姿をしているのか、見当もつきません。前髪のない男なら、どこにでもいるのですが。</p>

<p>決して揶揄するつもりはなく、誰かが先回りして何かをつかむことが、人類に大きな幸運をもたらす場合があることは確かです。</p>

<p>例えば医療の分野では、何人かの研究者が女神の前髪をつかんだおかげで、抗レトロウイルス療法というものが確立され、HIV/AIDSは「死の病」ではなくなった。体内のHIVを駆逐することはできないけれども、薬を飲んでいればHIVに感染した状態のまま、ずっと長く生きることができるし、非感染者と全く同じではないにせよ、大きくは違わない日常生活を送ることができるようになりました。デンマークでは、25歳の感染者の余命が、1995-6年（治療が確立される以前）には7.6年であったのが、治療が確立された2000-5年では32.5年にまで伸びたという研究があるのだそうです（詳しくは<a href="https://www.iyaku-j.com/MDJOURNA/VIRUS/doc/2007n1/008.htm">こちら</a>）。</p>

<p>抗レトロウイルス治療のおかげで、感染者はもはや「死を待つ者」ではなくなり、HIV/AIDSは「一生つきあう病」のひとつになった。そうだとして、ではある人が感染者として、どのように生きてゆくのか、また昨日まで人類の敵とされたウイルスと共存してゆくという経験は、どのような経験なのか、それはやはり、誰かがその経験を生きた後でないとわからないのかも知れない、と思います。それを先回りして、あなたは感染者だからこう生きるべきだ、とは言えないこともたくさんあるように思います。</p>

<p>ぼくらに生き方を教えてくれる神様がいるとして、彼は幸運の女神とは逆に、先回りしたらたぶんつかまえられない。通り過ぎた後で、後ろから追いかけるしかないのかも知れません。生き方の神様がいるとしたら、おそらく彼には、前髪がないはずです。</p>]]>
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<title>キリク</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jafore.org/blog/archives/2008/04/kirikou.html" />
<modified>2008-04-02T12:02:47Z</modified>
<issued>2008-04-02T11:59:00Z</issued>
<id>tag:www.jafore.org,2008:/blog//4.193</id>
<created>2008-04-02T11:59:00Z</created>
<summary type="text/plain">恐ろしい魔女によって呪われた西アフリカのある村に、キリクは産まれます。村人たちは呪いを恐れていましたが、キリクは最初から、恐怖に支配されるのとは違う生き方ができると感じていました。</summary>
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<name>nishi makoto</name>
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<email>makoto@jafore.org</email>
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<dc:subject>映画</dc:subject>
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<![CDATA[<p>恐ろしい魔女によって呪われた西アフリカのある村に、キリクは産まれます。村人たちは呪いを恐れていましたが、キリクは最初から、恐怖に支配されるのとは違う生き方ができると感じていました。</p>]]>
<![CDATA[<p>といっても、彼は例えば、魔女を追放して村に平和をもたらすことが正しい生き方だと考えたわけではありません。『<a href="http://whatisthematrix.warnerbros.com/japan/">マトリクス</a>』のモーフィアスのようにマッチョな人間であれば、恐怖の根源を滅ぼすことによって人類を救済しようと考えたでしょうが、キリクのやり方は違いました。</p>

<p>キリクは、魔女のもとへ出かけてゆき、魔女と話し、魔女を出し抜き、そしてまた魔女のもとへ出かけてゆく…ことを繰り返します。魔女との交渉の中でキリクは、呪いが恐怖を生んだのではなく恐怖が呪いを生んだのであり、魔女が憎悪の根源なのではなく憎悪が魔女をつくりだしたのだということを確信します。</p>

<p>『キリクと魔女』は最初、「無力な者でも智恵と勇気があれば、恐怖を取り除くことができる」ということを伝えようとしている物語であるように見えます。しかしストーリーが展開するにつれて、それは偽のテーマであることが徐々に明らかになってゆきます。</p>

<p>物語が終わるころには、キリクは見違えるように成長しているのですが、その頃までには、私たちはこの映画のほんとうのテーマを知るのです。それは、無力な者が持ちうる勇気についてのものであると言うよりは、敵と和解する者が持ちうる力についてのものです。</p>

<p>『キリクと魔女』<br />
<a href="http://www.albatros-film.com/movie/kirikou/">http://www.albatros-film.com/movie/kirikou/</a></p>]]>
</content>
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<title>せいくんとねこ</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jafore.org/blog/archives/2008/03/seikunto_neko.html" />
<modified>2008-03-02T11:32:40Z</modified>
<issued>2008-03-02T11:09:00Z</issued>
<id>tag:www.jafore.org,2008:/blog//4.191</id>
<created>2008-03-02T11:09:00Z</created>
<summary type="text/plain">「おや、さかなが　あるぞ。おいしそうだな。たべちゃおうっと。」「あっ　ねこ、さかなを　ねらっちゃ　だめ。この　さかな、ぼくが　たべるんだから。」――せいくんという男の子の家の台所におかれた一匹の魚を食べるのは、ねこかせいくんか。この問題をめぐって、せいくんとねこのあいだに奇妙な対話が始まります。</summary>
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<name>nishi makoto</name>
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<email>makoto@jafore.org</email>
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<dc:subject>ほん</dc:subject>
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<![CDATA[<p>「おや、さかなが　あるぞ。おいしそうだな。たべちゃおうっと。」「あっ　ねこ、さかなを　ねらっちゃ　だめ。この　さかな、ぼくが　たべるんだから。」――せいくんという男の子の家の台所におかれた一匹の魚を食べるのは、ねこかせいくんか。この問題をめぐって、せいくんとねこのあいだに奇妙な対話が始まります。</p>]]>
<![CDATA[<p>ねこによれば、問題はその魚を誰が所有しているかと言うことではなく、その魚が（ねこに食べられることによって）ねこになるべきか、それとも（せいくんに食べられることによって）せいくんになるべきかということです。そのような前提を述べた上でねこは、魚にとって幸せなのは、圧倒的に猫になることだと主張します。</p>

<p><img alt="seikunto_neko.jpg" src="http://www.jafore.org/blog/seikunto_neko.jpg" width="186" height="240" alt="表紙" style="float:left; padding:10px 20px 0px 0px;" />せいくんは、ねこの奇妙な前提をいちおう受け入れるのですが、せいくんになった魚も同じように幸せになる可能性があると言い返します。せいくんは夜になると、魚になって海を泳ぐことができるし、しかもその痕跡は、いま庭先に干してあるふとんに残されているというのです。</p>

<p>…ところで、どうしてこんな会話が始まってしまったのでしょうか。せいくんにとっては、魚はそもそもせいくんのものだし、ねこにとっては、魚が誰のものかなんていうことは始めから関心がありません。ねこは、すきを見て魚をくわえて持ち去ることだってできたはずだし、せいくんは、ねこが侵入する前に台所の窓を閉めてしまうことだってできたはずです。</p>

<p>ふつうに考えれば、決して対話のはじまりそうにないセッティングで、せいくんとねこは、それぞれ語り始めます。奇妙な会話ですが、決して無意味な会話ではない、というところに注目すべきでしょう。</p>

<p>無意味な会話と言うのは、互いにじぶんにとってだけ意味をなす内容を、相手にぶつけあうこと、例えば俺が魚を所有するのだと、猫に向かって主張するような会話のことです。ねこはきっと、自分のほうがすばやく魚に食いつけるのだと言い返すでしょう。</p>

<p>合理的だけれども無意味な対話にかけるのか、奇妙だけれども意味のある対話にかけるのか。せいくんとねこは、一匹の魚を目の前にして、お互いに意味のある対話の前提をつくりだすことに成功し、そしてお互いにとって幸福な解決策を見いだすのです。</p>

<p>なお<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%9B%E3%81%84%E3%81%8F%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%AD%E3%81%93-%E7%9F%A2%E5%B4%8E-%E7%AF%80%E5%A4%AB/dp/4577032554">「せいくんとねこ」</a>は、フレーベル館から出版されている絵本で、文章を矢崎節夫（金子みすゞを再発見したことでも知られる絵本作家です）が書き、長新太が絵を描いています。</p>]]>
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<title>郷倉</title>
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<modified>2008-01-29T14:53:28Z</modified>
<issued>2008-01-29T12:14:44Z</issued>
<id>tag:www.jafore.org,2008:/blog//4.192</id>
<created>2008-01-29T12:14:44Z</created>
<summary type="text/plain">日本各地の農村に、「郷倉（ごうくら）」あるいは「お倉」と呼ばれる建物が残されています。郷倉は、その村で徴収された年貢米を一時的に蓄えておくための施設で、多くは江戸時代に、幕府の命令で設置されたのだそうです。</summary>
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<name>nishi makoto</name>
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<email>makoto@jafore.org</email>
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<dc:subject>リポート</dc:subject>
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<![CDATA[<p>日本各地の農村に、「郷倉（ごうくら）」あるいは「お倉」と呼ばれる建物が残されています。郷倉は、その村で徴収された年貢米を一時的に蓄えておくための施設で、多くは江戸時代に、幕府の命令で設置されたのだそうです。</p>]]>
<![CDATA[<p><a href="http://www.jafore.org/blog/IMG_1492.html" onclick="window.open('http://www.jafore.org/blog/IMG_1492.html','popup','width=448,height=336,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.jafore.org/blog/IMG_1492-thumb.jpg" width="200" height="150" alt="須坂市の郷倉" style="float:left; padding:10px 20px 0px 0px;" /></a>写真の郷倉は、長野県須坂市に現存するもので、間口6間に奥行3間、塗篭め土蔵造り瓦葺の建物です。『新撰須坂市の文化財』の記述では、明治の地租改正によって、年貢米を貯蔵する必要がなくなったあと、この建物は地区の祭典用具や土木用具の収納庫として使われてきたとのこと。</p>

<p>いまは地元でも、この倉の由来を知る人は少ないようで、尋ねると「ああ、消防の倉庫のことね」という返事がかえってきます。建物は市指定の文化財として、教育委員会が改修し保存しているのですが、近年まで地区の消防団の倉庫としてじっさいに使用されていたということのようです。</p>

<p>ところで郷倉は、年貢米を保管するほかに、凶作に備えて穀物を貯蔵しておく役割も果たしていたと考えられています。須坂の郷倉のように、明治になるとその役割を終えた倉もありますが、他方で寒河江市（山形県）には、昭和になってから救荒の目的で建てられた倉があります。市のホームページに紹介されている「<a href="http://www.city.sagae.yamagata.jp/aramasi/history/sagashi21.html">幸生の恩賜郷倉</a>」がそれで、昭和9年に東北地方を襲った大凶作の際、心を痛めた天皇が下賜した救援資金に、国費と義捐金を合わせて建設されたとのこと。幸生の村民は、天皇の御恩と国民の同情に報いると同時に、自ら凶作に備えるため、共同で「報恩備荒田」を開発したとも記されています。</p>

<p>江戸時代の郷倉が、年貢米の備蓄と救荒というふたつの役割をかねていたのは、要するに年貢米はきちんと収めよ、そして農民は死なない程度に助け合えということなのだと解釈することもできるでしょうが、その正否はさておき、民衆の食糧確保に誰が責任を持つかと言う問題と、誰が支配するのかという問題とのあいだに、分かちがたい結びつきがあることは確かでしょう。</p>

<p><a href="http://www.jafore.org/ef/jpg/nokyo.jpg" onclick="window.open('http://www.jafore.org/ef/jpg/nokyo.jpg','popup','width=426,height=320,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.jafore.org/blog/nokyo-thumb.jpg" width="200" height="150" alt="ノダ農協" style="float:left; padding:10px 20px 0px 0px;" /></a>二枚目の写真は、エチオピアのグラゲ県というところにある農業協同組合の事務所兼倉庫です。この地域で10年以上も活動していた日本人の獣医師が、村人と話し合って組織した組合の建物です。</p>

<p>良く知られているとおり、エチオピアの農村では近年まで、干ばつが引き起こす飢饉のために、非常に多くの農民が命を落とすということがありました。しかし1990年代以降は、干ばつで農業生産の落ち込みが予想されると、人びとが飢えるまえに緊急食糧援助を実施する「早期警報システム」が整備され、飢饉が起こることはなくなりました。これはエチオピア政府や世界食糧計画(WFP)の要請にもとづき、北米やEU諸国から、エチオピアの干ばつ被災地へ、速やかに援助食糧が届けられるシステムです。</p>

<p>エチオピアの農民の食糧を緊急時に確保するという問題は、「大局的に見て」解決されたと言うことができるでしょうが、誰が食糧確保に責任を持つのかという問題は、前よりも深刻になったといってもよいでしょう。エチオピアの農村には、「緊急」食糧援助が日常化してしまっているところもあるのです。</p>

<p>グラゲ県に建てられた農業協同組合は、エチオピアの農民が協力しあって資金や穀物を蓄え、干ばつに備えるとともに生活を向上させる拠点として、考えられたものです。つまり農民が自らの食糧確保に責任を持つこと、そしてデモクラシー（＝民衆が自ら支配する）を実践することへの願いが、そこに現れていると言っても良いでしょう。</p>

<p>それは見果てぬ夢だという指摘は、おそらくその通りかもしれないし、理想の押し売りだという人もいるでしょうが、では誰が、どうやって彼らの食糧に責任を持つのかという問題を真摯に考えないところでは、どんな答えもでないように思います。</p>]]>
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<title>品格の時代</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jafore.org/blog/archives/2007/11/hinkaku.html" />
<modified>2007-11-16T22:30:18Z</modified>
<issued>2007-11-15T12:43:07Z</issued>
<id>tag:www.jafore.org,2007:/blog//4.190</id>
<created>2007-11-15T12:43:07Z</created>
<summary type="text/plain">電車のなかで、気の弱そうな若者がおじさんに絡まれていました。「きみ、ひとにぶつかったらちゃんと謝ろうな」。どうやら体があたったのが気に入らなかったようです。おじさんは、ひとくさり説教する気になったらしく、何やかやと文句をつけた挙句に、「品格の時代ですから、品格のある若者になってください」と言って電車を降りてゆきました。</summary>
<author>
<name>nishi makoto</name>
<url>http://www.jafore.org</url>
<email>makoto@jafore.org</email>
</author>
<dc:subject>コメンタリー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jafore.org/blog/">
<![CDATA[<p>電車のなかで、気の弱そうな若者がおじさんに絡まれていました。「きみ、ひとにぶつかったらちゃんと謝ろうな」。どうやら体があたったのが気に入らなかったようです。おじさんは、ひとくさり説教する気になったらしく、何やかやと文句をつけた挙句に、「品格の時代ですから、品格のある若者になってください」と言って電車を降りてゆきました。</p>]]>
<![CDATA[<p>ちょっと体があたったくらいでそこまで絡むのが品格なのかどうかはわかりませんが、それはさておき「品格の時代ですから」というのはなかなかの名言であると思いました。そういえば『女性の品格』という本が売れているそうです。読者は女性なのかと思っていたら、先日などは如何にもまじめそうな若い男が、電車の中で食い入るようにこの本を読んでいました。</p>

<p>ぼくはこの本を読んだことはありませんが、品格のある女性になるためには、街で配っている無料のティッシュを受け取ってはいけない、というようなことが書いてあるそうです。なぜこんなどうでも良いことが「品格」なのかと思う人もいるでしょうが、そもそもどうでも良いことにこだわるのが品格なるものの本質であることを考えれば、ティッシュを受け取るかどうかは、まさに品格ある女性にとって本質的な問題なのでしょう。</p>

<p>そう言った上で、何が品格にあたるかということを語ることそのものは、決して悪いことではないと思います。『女性の品格』という本が出版され、多くの女性がその本を読むことも、まあ悪いことだとは思いません。結局のところ彼女らは、この本にしたがって品格ある行動をとるか、それともしたがわないかを、みずから選択することができるからです。品格ある女性の人生は、それなりに豊かなものになり得るでしょうし、品格のない女性の人生も、やはり同じように豊かなものになり得ます。</p>

<p>まあじっさいには、品格ということばには、もう少したちの悪い押し付けがましさがあって、どこかでこの本を読みかじった男に、「品格のある女性は無料のティッシュなんて受け取らないんだよ」なんて説教されて頭に来ている女性も、きっといるでしょう。</p>

<p>それでも、この本が女性にとってそんなに悪いものだと、ぼくは思わないのです。なぜなら「品格のある女性になりなさい」という説教に対しても、女性はやはり選択肢を持っている。相手との関係に応じて、とりあえず説教に従うか、きびしく抗議するか、てきとうに無視するか、少なくとも三つの選択肢があるのです（たとえば一番目の選択肢は父親、二番目は彼氏、三番目はその他のすべての男性に対して、とりうる選択肢だと思われます）。</p>

<p>ぼくがこの本を恐れるのは、それとは別の理由があります。ぼくが気になっているのは、電車の中でこの本を読んでいた、若いまじめそうな男のことです。もし彼が『女性の品格』に書かれていることをすべて鵜呑みにして、「ぼくが結婚する女性はここに書いてあるとおりの女性だ」と思い込んだりしたら、そして初めてのデートで、「品格のある女性は無料のティッシュなんて受け取らないんだよ」とか、相手の行動にいろいろといちゃもんをつけるようになったら、きっと二回目のデートはないでしょう。</p>

<p>じぶんの品格に関することは選択できますが、他人の品格は、ほんらい選択できないものです。彼は品格ある女性を選択しているつもりで、単に押し付けがましい男になってしまう。彼は決して「押し付けがましさ」を選択したつもりではないはずなのに、そうなってしまうのです。そしてそれは決して、彼の人生を豊かにしない。それがぼくは心配なのです。</p>]]>
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<title>イブラヒムおじさんとコーランの花たち</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jafore.org/blog/archives/2007/10/mr_ibrahim.html" />
<modified>2007-10-17T12:51:43Z</modified>
<issued>2007-10-17T12:50:00Z</issued>
<id>tag:www.jafore.org,2007:/blog//4.189</id>
<created>2007-10-17T12:50:00Z</created>
<summary type="text/plain">1960年代、パリの裏通りで暮らす少年モモは、向かいの食料品店で万引きをする癖がありました。その食料品店を営むトルコ移民の老人イブラヒムは、そのことに気づいています。意外なことに彼は、「盗みを続けるならうちの店でやってくれ」とモモに言います。</summary>
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<email>makoto@jafore.org</email>
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<dc:subject>映画</dc:subject>
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<![CDATA[<p>1960年代、パリの裏通りで暮らす少年モモは、向かいの食料品店で万引きをする癖がありました。その食料品店を営むトルコ移民の老人イブラヒムは、そのことに気づいています。意外なことに彼は、「盗みを続けるならうちの店でやってくれ」とモモに言います。</p>]]>
<![CDATA[<p>商人がそんなことを言うなんてあり得ない、と誰でも思いますが、この人ならそう言うのかもしれないと思わせるところが、イブラヒムを演じるオマー・シャリフの非凡さなのでしょう。「盗みを続けるならうちの店で」と言ったイブラヒムおじさんが、単にモモの不幸な境遇を哀れんでいるのではないとすれば、彼はなぜ、そんなことを言ったのでしょうか？</p>

<p>イブラヒムおじさんはまた、失恋して落ち込むモモに対して、何も悲しむことはない、君の愛は変わらないのだから、と言います。「<strong>君が与えたものは、永遠に君のものだ</strong>」。このことばを真に受けるとして、じぶんが与えたものが永遠にじぶんのものであるということは、どういうことなのでしょうか？</p>

<p>誰かに与えたものが、いずれ（まわりまわって）じぶんのところに返ってくるということはありそうです。でもモモがそれまでの人生で失ってきたものは、どちらかといえば掛け替えのないものばかりであって、「いずれ返ってくるよ」という慰めがモモの心に響くとは思えません。</p>

<p>イブラヒムおじさんはむしろ、決して返ってこないものだからこそ、それは「永遠に君のもの」なのだと言ったのでしょう。例えば、ずっと昔に他界した妻に対する彼の愛が、そうなのでしょう。</p>

<p>もちろん若いモモは、そのことをすぐに理解できたわけではありません。彼にとって問題は、じぶんが求めるものが与えられておらず、与えようとしたものを受け取る人がいないことだったからです。しかしモモは、イブラヒムおじさんの死に立ち会ったあと、彼が「盗みを続けるならうちの店で」と言ったわけ、そして「君が与えたものは、永遠に君のものだ」ということばの意味するところを、すべて受け入れることができたのです。</p>

<p>なお「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」の<a href="http://www.gaga.ne.jp/ibrahim/">公式サイト</a>によれば、原作と脚本を書いたエリック=エマニュエル・シュミットは、哲学博士を取得したのちに劇作家、小説家となった人物なのだそうです。この映画の原作は、仏教を扱った『ミラレパ』、キリスト教を題材にした『神様とお話しした12通の手紙』と共に、宗教・信仰・文化をテーマにした「目に見えないものの3部作」の形体をなしているということです。</p>]]>
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<title>須坂市動物園のハッチとクララ</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jafore.org/blog/archives/2007/06/krutch.html" />
<modified>2007-06-12T05:19:31Z</modified>
<issued>2007-06-10T03:55:59Z</issued>
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<created>2007-06-10T03:55:59Z</created>
<summary type="text/plain">元気な動物園といえば、北海道の旭山動物園がつとに有名ですが、それよりはずっと小さな規模ながら、このところ市民のあいだで人気が急上昇しているのが、長野県の須坂市動物園です。</summary>
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<name>nishi makoto</name>
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<email>makoto@jafore.org</email>
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<dc:subject>リポート</dc:subject>
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<![CDATA[<p>元気な動物園といえば、北海道の旭山動物園がつとに有名ですが、それよりはずっと小さな規模ながら、このところ市民のあいだで人気が急上昇しているのが、長野県の須坂市動物園です。</p>]]>
<![CDATA[<p>この動物園は、数年前には年間の入場者数が6万人台にまで落ち込んみ、「はく製だけ満員御礼」の<a href="http://www.excite.co.jp/News/bit/00091096618861.html">哀愁の動物園</a>として紹介されたこともあります。それが昨（2006）年度は23万人を超えたという盛り返しようには驚かされます。</p>

<p>　資料：　<a href="http://www.city.suzaka.nagano.jp/city/garyu/dobutsu/dat/nyuensyasu.pdf">須坂市動物園の入場者数の推移</a>（pdfファイル）</p>

<p>その背景には、入場者をあっと言わせるような工夫や仕掛けがあるのでしょうか？　じっさいに訪ねてみると、外観こそさびれてはいますが、確かに地方の動物園とは思えないくらい、親子連れでにぎわっています。</p>

<p>カモシカとか、サルの仲間とか、決して派手とはいえない動物たちの獣舎がならぶ園内で、際立って人だかりができているのは、アカカンガルーのハッチとクララ、そして子どものクラッチが暮らす檻のまえです。そしてこのアカカンガルーの家族が、近年の須坂市動物園の人気を、一手に背負っているのだそうです。</p>

<p>須坂動物園のハッチは、サンドバッグを蹴るのが得意だそうで、その姿がウエブカメラをとおして、24時間配信されるようになったことから、注目を集めました。須坂動物園のホームページから、いつでもハッチの姿を見ることができます。</p>

<p>　ウエブカメラ：　「<a href="http://www.city.suzaka.nagano.jp/city/garyu/dobutsu/webcam.php">ハッチのおうち</a>」</p>

<p>それで、じっさいに見てもらえばわかりますが、どこにでもある家族の休日を連想させる、ほのぼのとした光景には癒されるものの、このウエブカメラが23万人の動員につながったと説明するのは、ちょっと微妙な感じがしないでもないです。</p>

<p>ハッチが注目されるのは、ほかに理由があるのでしょうか？　じつは昨年、須坂市民のあいだで、ある「スキャンダル」が話題になりました。それは、神戸市立王子動物園からハッチのところに「お嫁に」きたクララが出産した、赤ちゃんのことです。</p>

<p><a href="http://www.jafore.org/blog/Image066.html" onclick="window.open('http://www.jafore.org/blog/Image066.html','popup','width=480,height=640,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.jafore.org/blog/Image066-thumb.jpg" width="150" height="200" alt="愛妻家認定書" style="float:left; padding:10px 20px 0px 0px;" /></a>須坂市動物園の説明によれば、出産のタイミングから考えて、クララの妊娠は「嫁入り」のまえ、王子動物園ですでに妊娠していたと考えねばならないのだそうです。それを知りながら赤ちゃんを「クラッチ」（＝クララ＋ハッチ）と命名した須坂市動物園の度量もさることながら、クララとクラッチに対する、ハッチの変わることのない態度が、おおくの市民の共感？を呼んだようです。興味深いことに、ハッチは日本愛妻家協会という団体から、ヒト以外の動物として最初の愛妻家認定書を授与されています（写真はハッチの獣舎のまえに掲示されている認定書）。<br style="clear: both;"></p>

<p>スキャンダルとか共感とか言っても、すべてはハッチとその家族を観察する人間の、過剰な思い入れに過ぎないのはもちろんです。しかしハッチの身の回りには、さらに思い入れの過剰さをあおるような出来事が続きます。</p>

<p>この4月、クララに第二子が誕生しました。こんどこそハッチとクラッチのあいだに・・・と期待した須坂市民に対して動物園は「赤ちゃんがハッチの子の可能性は<strong>五分五分</strong>の状況です」と説明しました。動物園の発表によれば、カンガルーの雌は、受精卵を胎内にとどめておくことができ、したがってクララの第二子についても、王子動物園から持ってきた受精卵が成長した可能性があるということです。</p>

<p>このことについて動物園は、次のようにコメントしています。</p>

<p>「動物園といたしましては、赤ちゃんがどちらの子であっても健康ですくすくと育ち、家族が増え賑やかになったハッチファミリーが今後とも多くの皆様に愛されることを願っています」</p>

<p>　資料：　<a href="http://www.city.suzaka.nagano.jp/contents/event/event.php?p=c&id=1801&joho=oshi">須坂市動物園による発表の全文</a></p>

<p>この発表を読んだひとの多くは、家族とは何かということ、またそれを取り囲む社会のあり方について、心ならずも思いを馳せてしまうでしょう。過剰な思い入れは良くないと思いながらも、ぼくは次のようなことを考えました。</p>

<p>・・・須坂動物園のことばを借りるまでもなく、私たちの望みは他の何よりも、生まれてくる世代が「すくすくと育ち」、「多くの皆様に愛される」ということであるはずです。</p>

<p>私たちは、カンガルーの子どもについては、それを望むことができるのに、人間の子どもについては、たとえば出生届で「嫡出子」と「非嫡出子」を区別するように求め、両親がそれを拒否した場合には、戸籍の作成を拒否するというようなことが、平然とおこなわれてきました。</p>

<p>もちろん戸籍なんかなくても子どもは育ちます。しかし、子どもの社会生活を第一に考えるという習慣があれば、嫡出子と非嫡出子を区別しないまま戸籍をつくることだって可能だったはずで、制度上の完全さを守るために、戸籍のない子どもがいても仕方がないという考え方は、私たちの社会を抑圧的なものにするだけで、何も得るところはないように思います。</p>

<p>　記事（ウエブ魚拓を利用しています）：　<br />
　<a href="http://megalodon.jp/?url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070531i113.htm&date=20070610144925">出生届不受理で無戸籍の子供、東京地裁が住民票作成命じる</a></p>

<p>ハッチとクララの例をあげるまでもなく、大人の世界にはいろいろな事情があります。重要なのは、そのことで子どもに不利益を与えないような制度をつくることであって、その逆ではないはずです。</p>]]>
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<title>約束の旅路</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jafore.org/blog/archives/2007/06/va_vis_et_deviens.html" />
<modified>2007-06-04T08:54:33Z</modified>
<issued>2007-06-04T06:57:57Z</issued>
<id>tag:www.jafore.org,2007:/blog//4.187</id>
<created>2007-06-04T06:57:57Z</created>
<summary type="text/plain">ひとはどんな過酷な運命に遭遇しても、少数の善良な人びとの支えがあれば、充実した人生を生きることができる。・・・それがこの映画のメッセージです。</summary>
<author>
<name>nishi makoto</name>
<url>http://www.jafore.org</url>
<email>makoto@jafore.org</email>
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<dc:subject>映画</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ひとはどんな過酷な運命に遭遇しても、少数の善良な人びとの支えがあれば、充実した人生を生きることができる。・・・それがこの映画のメッセージです。</p>]]>
<![CDATA[<p>『<a href="http://www.jafore.org/blog/archives/2007/05/tsotsi.html">ツォツィ</a>』とは対照的に、文部科学省特選作品に選ばれたこの作品には、素直に感動できないという人もいるかも知れません。善良な人びとに囲まれていれば、人生がうまく行くのはあたりまえではないかと言われたら、まったくその通りです。</p>

<p>むしろ善良さを期待できないところで、人間がどのように生きられるかを追求する方が、文学上のテーマとしては高級な感じがする。そんな風に思う人もいるでしょう。</p>

<p>それはその通りなのですが、もっと「高級」なテーマを見せて欲しいんだと言ってだだをこねる観客は、結局のところ、他人の「善良さ」など気にせずに暮らしてゆける幸福な人、あるいは「善良さ」を気にせずに暮らしていけると思い込んで生きてゆける幸運な人なのだという気もします。</p>

<p><a href="http://www.sia.go.jp/top/kaikaku/kiroku/index.htm">年金記録問題</a>をはじめ、いろいろな制度上のほころびが見えているとはいえ、日本の社会は、少なくともマジョリティを占める人びとにとっては、「善良さ」以上のものを提供してくれるところです。</p>

<p>社会とはそのようなものだと信じている人にとって（ぼくじしんもそのように考えがちですが）、『約束の旅路』の主人公である少年シュロモ（映画の途中から青年シュロモになります）のような経験、つまり故郷から遠く離れ、じぶんのなまえも、家族のなまえも偽って生きてゆかねばならないという経験は、にわかには理解しがたいものなのかも知れません。</p>

<p>「善良さ」は、文学上の重要なテーマではないかも知れず、また社会にとっての解決策でもないというのは確かですが、問題はその「善良さ」によって、辛うじて社会につなぎ止められている、シュロモの在り方なのです。</p>

<p>ところでこの映画は、1985年の「モーゼ作戦」でイスラエルに移住したエチオピア系ユダヤ人を描いたものですが、何かとエチオピアへの思い入れが強いぼくの目から見て、ちょっと違和感を感じるところが、ないわけではありません。たとえば、「エチオピア人は夜空の月に向かって祈ったりしないだろう」とか・・・。</p>

<p>しかし他方で、フランスで制作された映画なのに、台詞の約1/3がアムハラ語（エチオピアで話されている言語のひとつ）という思い切った台本はすばらしく、字幕ではなかなか伝わらないような、アムハラ語の美しい表現も随所に見られます。</p>

<p>またシュロモの故郷に対する思いや、どこに向けて良いかわからない怒りといった感情は、非常な切実さをもって描かれているように思いますが、それはこの映画の監督じしんが、移民としての経験を持っているからなのでしょうか。</p>

<p>約束の旅路<br />
<a href="http://yakusoku.cinemacafe.net/">http://yakusoku.cinemacafe.net/</a></p>]]>
</content>
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<title>ツォツィ</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jafore.org/blog/archives/2007/05/tsotsi.html" />
<modified>2007-06-11T01:54:01Z</modified>
<issued>2007-05-12T12:53:00Z</issued>
<id>tag:www.jafore.org,2007:/blog//4.184</id>
<created>2007-05-12T12:53:00Z</created>
<summary type="text/plain">『ツォツィ』を観た人は、この映画のホームページで、ちょっと変わったアンケートに答えることができます。「ツォツィは映倫でR-15（中学生以下鑑賞禁止）の指定を受けました。この映画は中学生が見てもよいと良いと思いますか？」というアンケートです。</summary>
<author>
<name>nishi makoto</name>
<url>http://www.jafore.org</url>
<email>makoto@jafore.org</email>
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<dc:subject>映画</dc:subject>
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<![CDATA[<p>『ツォツィ』を観た人は、この映画のホームページで、ちょっと変わったアンケートに答えることができます。「ツォツィは映倫でR-15（中学生以下鑑賞禁止）の指定を受けました。この映画は中学生が見てもよいと良いと思いますか？」というアンケートです。</p>]]>
<![CDATA[<p>この映画の冒頭では、不良たちが善良な市民から金を奪おうとして、簡単に殺してしまう描写があります。映倫の委員が、この映画をR-15指定することで、青少年の暴力抑止に気を使っているふりをしたがるのも、無理のないことです。というのも彼らの関心は、何かの責任を負わされることから、逃れることにしかないのです。</p>

<p>ツォツィは、金を奪うために他人を簡単に殺してしまう不良として登場します。そこには人間らしいモラルの欠けらもありません。確かにそのとおりですが、では単に暴力を覆い隠すだけで社会的な責任を免れると思っている人たちに、どのような倫理があると言えるのでしょう？</p>

<p>ツォツィは駅でであった物乞いに対して、「犬のようになっても、どうして生きるのか」と尋ねます。もちろんそれは、暴力的な父親におびえながら育った、ツォツィじしんに対する問いかけでもあります。その物乞いは、ツォツィの問いに対して詩のような表現で答えますが、つまりそれは、答えのない問いだということです。</p>

<p>まともで "decent な" 生き方をすること、そして尊敬される人間として生きることはやさしいですが、「犬のようになっても」どうして生きるのかという問いには、簡単に答えられない。15歳にならない子どもだからこそ、そのことを知っておいて欲しいと思います。それこそが、社会の倫理にかかわる問いだからです。</p>

<p>もちろんツォツィは、たちの悪い「不良」であり、他人に銃を突きつけて命令することでしか、コミュニケーションの取れない人間として登場します。私たちの子どもたちには、そのような人間になってほしくない。</p>

<p>それはそうですが、私たちの社会で決定権を握っている人たちの中には、（決して人を殴ったりはしないけれども）理不尽な命令でしかコミュニケーションできない人たちが、たくさんいるのではないかとも思います。</p>

<p>じつのところ、この映画が提示しようとしている結論は、銃を突きつけるのとは違うやり方で、私たちは理解しあうことができるというものであり、それは南アフリカの人たちが（あるいは私たちの世界が）直面している経済的な格差や社会的な不平等を考慮するならば、むしろ健全すぎる結論だというべきです。</p>

<p>その健全さに対して、子どもたちに見せるなという答えしか提示できないことは、どのような倫理とも関係のない、臆病さでしかないのであり、その臆病さと保身とが、彼らをして「この映画を観るな」と命令させるのです。</p>

<p>ツォツィ公式ホームページ<br />
<a href="http://www.tsotsi-movie.com/index.shtml">http://www.tsotsi-movie.com/index.shtml</a></p>]]>
</content>
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<title>ダーウィンの悪夢</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jafore.org/blog/archives/2007/02/dawinsnightmare.html" />
<modified>2007-02-05T05:44:21Z</modified>
<issued>2007-02-05T05:18:00Z</issued>
<id>tag:www.jafore.org,2007:/blog//4.183</id>
<created>2007-02-05T05:18:00Z</created>
<summary type="text/plain">タンザニアのビクトリア湖畔に、ムワンザという町があります。この小さな町が、アフリカ各地の紛争で使われる武器交易の拠点になっているのではないか？　『ダーウィンの悪夢』を監督したフーベルト・ザウパーはそう疑っています。</summary>
<author>
<name>nishi makoto</name>
<url>http://www.jafore.org</url>
<email>makoto@jafore.org</email>
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<dc:subject>映画</dc:subject>
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<![CDATA[<p>タンザニアのビクトリア湖畔に、ムワンザという町があります。この小さな町が、アフリカ各地の紛争で使われる武器交易の拠点になっているのではないか？　『ダーウィンの悪夢』を監督したフーベルト・ザウパーはそう疑っています。</p>]]>
<![CDATA[<p>ただ残念なことに彼も、彼がインタビューしたムワンザの市民や娼婦たちも、そして現地のジャーナリストも、決定的な証拠を示してはいません。じつはこのドキュメンタリー映画では、何か注意深く隠されている悪事を「暴きだす」ような場面はひとつもありません。むしろビクトリア湖で魚を獲る漁師や、それを工場で解体する労働者、そしてムワンザの町のストリート・チルドレンや娼婦といった人々の日常を、細切れに追っているだけです。<a href="http://www.darwin-movie.jp/reports.html">監督じしんが認めているように</a>、この映画では、わたしたちが「既に知っている」はずのことしか、描いていません。</p>

<p>にもかかわらず、その映像が「衝撃的」なものに見えるとすれば、その原因は映像にあるのではなく、観客の認識にあります。つまり多くの人々が、ビクトリア湖の環境について、あるいはグローバル経済がムワンザの住民に与えてきた影響について、楽観的すぎる認識を持ってきたということです。</p>

<p>たとえばビクトリア湖で急速に進行する環境破壊を憂慮する専門家は、湖に生息する魚が減ることで、ビクトリア湖の漁師たちが将来、飢える恐れがある、と主張します。</p>

<p>しかし漁師の日常をみると、この主張ですら「楽観的すぎる」ということが、すぐに理解できます。エイズで死んでいく仲間たちをじゅうぶんに見てきた漁師にとって、死は「将来の恐れ」ではなく、現在の問題であるからです。<a href="http://kusuri-jouhou.com/medicine/aids.html">ウイルスの増殖を抑える薬</a>さえ手に入れば、エイズはもはや「死の病」ではないのですが、ビクトリア湖畔では、多くの人がこの病気で命を落とします。</p>

<p>またムワンザの町では布教活動中の男が、キリストの奇跡について語ります。ゲネサレト湖（ガラリヤ湖）の漁師シモン・ペトロの網に、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになったという奇跡です。</p>

<p>この奇跡に、ビクトリア湖畔の住民たちも驚嘆するでしょうか？　しかしグローバル経済の時代にあっては、ビクトリア湖の魚は直ちに工場で三枚におろされ、身の部分はおもにヨーロッパと日本の消費者に届けられます。湖畔で暮らす人々は、残された頭や中骨に付着した身をせせるのです。</p>

<p>誤解の無いように言っておくと、せっかく獲れた魚を余さずに食べることは、もちろん美徳であって、悪いことではありません。そうではなくて問題は、ビクトリア湖の漁師や、ムワンザの住民たちが、ペトロと同じように「網が破れるほどの魚」を望んでいるのかということです。</p>

<p>この映画でもっとも印象的な登場人物であるラファエル（現地の漁業研究所の夜警）は、「戦争があれば金になるのに……皆､戦争を望んでるはずさ」と語ります。ムワンザは、武器の中継地であるかも知れないし、そうでないかも知れない。いずれにしてもラファエルにとっては、戦争の悪い夢だけが、彼の救世主であるように思われるのです。</p>]]>
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<title>ぼくらの四日間戦争</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jafore.org/blog/archives/2007/01/4dayswar.html" />
<modified>2007-01-26T00:34:30Z</modified>
<issued>2007-01-25T00:17:29Z</issued>
<id>tag:www.jafore.org,2007:/blog//4.182</id>
<created>2007-01-25T00:17:29Z</created>
<summary type="text/plain">久間防衛相が、イラク戦争の開戦について「（ブッシュ米大統領の）判断が間違っていた...</summary>
<author>
<name>nishi makoto</name>
<url>http://www.jafore.org</url>
<email>makoto@jafore.org</email>
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<dc:subject>エチオピア</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jafore.org/blog/">
<![CDATA[<p>久間防衛相が、イラク戦争の開戦について「（ブッシュ米大統領の）<a href="http://megalodon.jp/?url=http://www.jiji.com/jc/c%3fg%3dpol_30%26k%3d2007012400831&date=20070125093518">判断が間違っていたと思う</a>」と述べたのだそうです。誰もが思っていることとはいえ、立場が立場だけに大ごと…と思いきや、安倍首相も「（個人的な）感想を述べられたのだろうと思う」と、他人行儀なコメントで済ませる様子です。</p>]]>
<![CDATA[<p>過去の人となりつつあるブッシュ大統領に、今さら気を遣っても仕方がないということでしょうか。落ち目の時にも、それなりに威厳を保てるかどうかは、その人が得意の時代に、他人に何をしてきたかで決まるようです。</p>

<p>とはいえ、そんなブッシュ大統領にも、まだ友人はいます。例えばエチオピアのメレス首相は最近、ブッシュ大統領が掲げる「対テロ戦争」の最も忠実な実践者として、隣国<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%86%85%E6%88%A6">ソマリアの内戦</a>に介入しました。</p>

<p>ソマリアは10年におよぶ内戦ののち、2000年8月に暫定政府が発足していますが、この政権は実際には、ソマリア全土の支配を回復するにはほど遠く、首都モガディシュでは、原理主義的な思想を持つ「イスラム法廷連合」（ＵＩＣ）が急速に勢力を伸ばしていました。</p>

<p>この状況をエチオピアへの脅威と見なしたメレス首相は、「イスラム法廷連合」をテロ勢力と断定し、エチオピア軍はソマリア暫定政府と協力して、法廷連合を駆逐する軍事作戦を展開しています。昨年12月25日、バイドア（エチオピア国境に近いソマリアの町）から進軍を始めたエチオピア軍とソマリア暫定政府軍の地上部隊は、同月28日までに、モガディシュ市街を制圧することに成功しました。</p>

<p>これはいわば、2003年3月に始まったイラク侵攻での、「有志連合」軍の迅速な作戦遂行を彷彿とさせるような、軍事的な勝利でした。ソマリア侵攻の進捗を報じた、エチオピアの民間紙のなかには、「四日間戦争（Four Day War）」という見だしを掲げたものもありました。</p>

<p>メレス首相は12月27日の記者会見で、「ソマリアの国民はエチオピア軍を歓迎している」と述べ、「作戦が完了すれば、エチオピア軍はすみやかにソマリアから撤退する」と約束しました。</p>

<p>しかし実際には、エチオピア軍は現在もソマリア国内に駐留しており、モガデシュでは、エチオピア軍の撤退を求める市民のデモも行われているようです。またエチオピア国内でも、「対テロ戦争」への参入は、国民をいたずらに危険に晒すものだという批判が強く、また軍事介入にまわす予算があるなら、貧しい国民の生活を支援すべきだという意見もあります。</p>

<p>そもそも「イスラム法廷連合」は、エチオピアの国民にとって、それほど危険な「テロ組織」だったのでしょうか？　これは「サダム・フセインは、大量破壊兵器を使って他国を攻撃しようとしていたか」という問いと同じくらい、微妙な問題であったように思います。それでもメレス首相が軍事介入を強行したのは、エチオピアのある野党議員の意見では、「国民の不満をそらすため」です。</p>

<p>メレス首相は、英国のブレア首相が提唱する「<a href="http://www.uknow.or.jp/be/ukview/g8/africa.htm">アフリカ委員会</a>」に<a href="http://www.commissionforafrica.org/english/commissioners/bios/zenawi.html">名を連ねる</a>など、国際的に高く評価された政治家であり、少なくとも2005年5月までは、アフリカの民主主義を推進するリーダーのひとりだと見なされてきました。</p>

<p>ところが2005年5月に実施された総選挙にともなう混乱のなか、市民のデモに向けて軍が発砲し、多くの犠牲者がでたうえ、野党のリーダーらが投獄される事態となり、エチオピアの民主化に期待を寄せていた人たちは、一様に落胆しました。</p>

<p>メレス首相に同情的な見方をするならば、選挙が混乱を招いた原因は、与党と野党の双方で、話し合いよりも力づくの解決を好む強硬派が勢いを得てしまったことであって、メレス首相の意図した結果ではありません。しかしいずれにせよ、選挙のあと、メレス首相をアフリカ民主主義の旗手とみなす人はいなくなりました。</p>

<p>メレス首相の真意は誰にもわかりませんが、仮に彼が、民主的な選挙の失敗で凋落した政治家としての評価を、「対テロ戦争」で取り戻せると考えているのならば、その賭けがエチオピアの国民に良い結果をもたらす可能性は、決して高くないように思われます。</p>]]>
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<title>抱きしめてあげるだけで</title>
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<modified>2006-12-22T03:38:02Z</modified>
<issued>2006-12-22T02:38:00Z</issued>
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<summary type="text/plain">子供の頃に、学校や家で、なんだかよくわからない理由で叱られて、泣いたりふてくされた記憶のひとつやふたつは、誰にでもあると思います。たとえ短い時間でも、なぜ責められているのか理解できないまま責められるのは、つらいことです。</summary>
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<name>nishi makoto</name>
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<email>makoto@jafore.org</email>
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<dc:subject>コメンタリー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>子供の頃に、学校や家で、なんだかよくわからない理由で叱られて、泣いたりふてくされた記憶のひとつやふたつは、誰にでもあると思います。たとえ短い時間でも、なぜ責められているのか理解できないまま責められるのは、つらいことです。</p>]]>
<![CDATA[<p>まして子供の頃に、いつも理由もわからず殴られたり、憎まれていると感じたり、食事を与えられずに育つことは、どれほどの痛みかと考えます。</p>

<p>公共広告機構（ＡＣ）というのがあります。「広告を営利目的ではなく、公共のために役立てようと」している団体で、最近では「<a href="http://www.ad-c.or.jp/campaign/self_all/03/index.html">はっけよいエコライフ</a>」というテレビＣＭを提供しています。</p>

<p>この団体が提供した過去のＣＭのなかで、とくに反響が多かったのが、児童虐待をテーマにした作品「<a href="http://www.ad-c.or.jp/campaign/work/2003/index.html">抱きしめる、という会話。</a>」なのだそうです。子供とどう接して良いのかわからない若い母親に対して、「まず抱きしめてあげて」と呼びかける内容です（あとで「父親編」も制作されています）。</p>

<p>抱きしめるだけでいいんだ、というメッセージは非常にわかりやすく、そして力強いものです。</p>

<p>ただ、次のようにも思います。母親（父親）が我が子を「抱きしめてあげられるかどうか」が問題の本質なのか。あるいはそうではなくて、「今は抱きしめてあげられるけど、次の瞬間には殴ってしまうかもしれない」という不安であったり、「今は抱きしめてくれているけど、次の瞬間には殴られるかもしれない」という恐怖が、虐待のすがたなのか。</p>

<p>いずれにしても、「抱きしめてあげるだけでいいんだ」というメッセージは、多くの人たちを安心させるという意味で、確かに「公共のために」役立っているとは言えるでしょう。</p>

<p>母親が我が子を「抱きしめてあげるだけで」児童虐待がなくなるなら、児童虐待の問題はすぐにも解決するように思えてくるからです。また、もし問題が解決しなくても、それは単に我が子を抱きしめてあげない母親の責任なのだと言えるからです。</p>

<p>誤解のないように言っておくと、「虐待は母親が悪いのではなく、社会が悪いのだ」と言いたいのではありません。虐待する母親は、その定義上、悪い母親であることは明白です。しかし虐待する母親が悪いと言おうが、鬼だと責めようが、虐待の問題は解決しないように思われます。</p>

<p>言いたかったのは、「もともと幸福な多数の人たち」が、そのメッセージに感動することと、そのメッセージがじっさいに苦しんでいる人たちへの理解をうながしたり、その苦しみを取り除くこととは、まったく別のことであるかも知れないということです。</p>]]>
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<title>嫌われ松子の一生</title>
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<modified>2006-12-11T02:05:39Z</modified>
<issued>2006-12-11T02:59:00Z</issued>
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<summary type="text/plain">10日にいちどほどの間隔で、電子メールの受信箱に「幸福日記」と題したエッセイが届きます。宗教の勧誘とかではなく、関西学院大学の社会学研究科が発行しているメールマガジンに、若手研究者が連載しているエッセイです。</summary>
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<name>nishi makoto</name>
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<email>makoto@jafore.org</email>
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<dc:subject>映画</dc:subject>
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<![CDATA[<p>10日にいちどほどの間隔で、電子メールの受信箱に「幸福日記」と題したエッセイが届きます。宗教の勧誘とかではなく、関西学院大学の社会学研究科が発行しているメールマガジンに、若手研究者が連載しているエッセイです。</p>]]>
<![CDATA[<p>幸福について一緒に考えましょう、という呼びかけに対して、何となく感じる居心地の悪さ、あるいは「宗教じゃあるまいし」という反発はおそらく、市民のあいだに浸透している信条、あるいは漠然とした合意のようなものに関係しているのでしょう。</p>

<p>つまり幸福というのは、それぞれの個人が、それぞれの価値観に照らして発見すべきものであり、誰かに押しつけられるものであってはならないという考え方のことです。</p>

<p>しかし、よく考えてみると、価値があると言える行為は何か、また幸福と呼ぶに値する状態は何かということは、じっさいにはほかの誰かと相談したり、交渉するなかで決まってゆくものであって、文字どおりひとりで「発見」するようなものではありません。</p>

<p>だから、ふとしたはずみで中学校の教員を首になり、ヤクザの女になった松子が、どんなに殴られても「ひとりで生きるよりはまし」と呟くのは、理由のないことではありません。孤独から逃れようとしてヤクザの女になるのは、賢い選択とは言えないにせよ、孤立は価値を見失わせるのです。</p>

<p>この問題について、映画『嫌われ松子の一生』のメッセージは、どちらかといえば単純なもので「人の価値は他人に何をしてもらったかではなく、他人に何をしたかで決まる」といいます。松子は、どれほど裏切られ続けても、人を愛するということを止めようとしないからです。</p>

<p>ただし表面上のメッセージとは裏腹に、嫌われ松子の「一生」はじっさいには、次々と襲いかかる暴力的な運命に耐えて、やみくもに誰かを愛しようという松子の試みが、最期まで彼女の幸福に結びつくことがなかったのだという事例を示しています。</p>

<p>映画の中で、人を愛し続ける松子は、聖書が教える神のような存在なのだと説明されますが、じっさいには松子は、身に覚えのない罰を受けながら、「どうして？」と呟く<a href="http://www2.plala.or.jp/Arakawa/job_index.htm">ヨブ</a>の役を演じているのであり、それこそがこの映画の見どころなのだと思います。</p>

<p>なお、冒頭で紹介したメールマガジンは、次のページから購読の申し込みができます。</p>

<p>関西学院大学大学院社会学研究科<br />
21世紀COEプログラム「人類の幸福に資する社会調査」の研究<br />
<a href="http://coe.kgu-jp.com/jp/">http://coe.kgu-jp.com/jp/</a></p>]]>
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