2008年01月29日

郷倉 [リポート]

日本各地の農村に、「郷倉(ごうくら)」あるいは「お倉」と呼ばれる建物が残されています。郷倉は、その村で徴収された年貢米を一時的に蓄えておくための施設で、多くは江戸時代に、幕府の命令で設置されたのだそうです。

須坂市の郷倉写真の郷倉は、長野県須坂市に現存するもので、間口6間に奥行3間、塗篭め土蔵造り瓦葺の建物です。『新撰須坂市の文化財』の記述では、明治の地租改正によって、年貢米を貯蔵する必要がなくなったあと、この建物は地区の祭典用具や土木用具の収納庫として使われてきたとのこと。

いまは地元でも、この倉の由来を知る人は少ないようで、尋ねると「ああ、消防の倉庫のことね」という返事がかえってきます。建物は市指定の文化財として、教育委員会が改修し保存しているのですが、近年まで地区の消防団の倉庫としてじっさいに使用されていたということのようです。

ところで郷倉は、年貢米を保管するほかに、凶作に備えて穀物を貯蔵しておく役割も果たしていたと考えられています。須坂の郷倉のように、明治になるとその役割を終えた倉もありますが、他方で寒河江市(山形県)には、昭和になってから救荒の目的で建てられた倉があります。市のホームページに紹介されている「幸生の恩賜郷倉」がそれで、昭和9年に東北地方を襲った大凶作の際、心を痛めた天皇が下賜した救援資金に、国費と義捐金を合わせて建設されたとのこと。幸生の村民は、天皇の御恩と国民の同情に報いると同時に、自ら凶作に備えるため、共同で「報恩備荒田」を開発したとも記されています。

江戸時代の郷倉が、年貢米の備蓄と救荒というふたつの役割をかねていたのは、要するに年貢米はきちんと収めよ、そして農民は死なない程度に助け合えということなのだと解釈することもできるでしょうが、その正否はさておき、民衆の食糧確保に誰が責任を持つかと言う問題と、誰が支配するのかという問題とのあいだに、分かちがたい結びつきがあることは確かでしょう。

ノダ農協二枚目の写真は、エチオピアのグラゲ県というところにある農業協同組合の事務所兼倉庫です。この地域で10年以上も活動していた日本人の獣医師が、村人と話し合って組織した組合の建物です。

良く知られているとおり、エチオピアの農村では近年まで、干ばつが引き起こす飢饉のために、非常に多くの農民が命を落とすということがありました。しかし1990年代以降は、干ばつで農業生産の落ち込みが予想されると、人びとが飢えるまえに緊急食糧援助を実施する「早期警報システム」が整備され、飢饉が起こることはなくなりました。これはエチオピア政府や世界食糧計画(WFP)の要請にもとづき、北米やEU諸国から、エチオピアの干ばつ被災地へ、速やかに援助食糧が届けられるシステムです。

エチオピアの農民の食糧を緊急時に確保するという問題は、「大局的に見て」解決されたと言うことができるでしょうが、誰が食糧確保に責任を持つのかという問題は、前よりも深刻になったといってもよいでしょう。エチオピアの農村には、「緊急」食糧援助が日常化してしまっているところもあるのです。

グラゲ県に建てられた農業協同組合は、エチオピアの農民が協力しあって資金や穀物を蓄え、干ばつに備えるとともに生活を向上させる拠点として、考えられたものです。つまり農民が自らの食糧確保に責任を持つこと、そしてデモクラシー(=民衆が自ら支配する)を実践することへの願いが、そこに現れていると言っても良いでしょう。

それは見果てぬ夢だという指摘は、おそらくその通りかもしれないし、理想の押し売りだという人もいるでしょうが、では誰が、どうやって彼らの食糧に責任を持つのかという問題を真摯に考えないところでは、どんな答えもでないように思います。

nishi makoto

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