2007年06月10日

須坂市動物園のハッチとクララ [リポート]

元気な動物園といえば、北海道の旭山動物園がつとに有名ですが、それよりはずっと小さな規模ながら、このところ市民のあいだで人気が急上昇しているのが、長野県の須坂市動物園です。

この動物園は、数年前には年間の入場者数が6万人台にまで落ち込んみ、「はく製だけ満員御礼」の哀愁の動物園として紹介されたこともあります。それが昨(2006)年度は23万人を超えたという盛り返しようには驚かされます。

 資料: 須坂市動物園の入場者数の推移(pdfファイル)

その背景には、入場者をあっと言わせるような工夫や仕掛けがあるのでしょうか? じっさいに訪ねてみると、外観こそさびれてはいますが、確かに地方の動物園とは思えないくらい、親子連れでにぎわっています。

カモシカとか、サルの仲間とか、決して派手とはいえない動物たちの獣舎がならぶ園内で、際立って人だかりができているのは、アカカンガルーのハッチとクララ、そして子どものクラッチが暮らす檻のまえです。そしてこのアカカンガルーの家族が、近年の須坂市動物園の人気を、一手に背負っているのだそうです。

須坂動物園のハッチは、サンドバッグを蹴るのが得意だそうで、その姿がウエブカメラをとおして、24時間配信されるようになったことから、注目を集めました。須坂動物園のホームページから、いつでもハッチの姿を見ることができます。

 ウエブカメラ: 「ハッチのおうち

それで、じっさいに見てもらえばわかりますが、どこにでもある家族の休日を連想させる、ほのぼのとした光景には癒されるものの、このウエブカメラが23万人の動員につながったと説明するのは、ちょっと微妙な感じがしないでもないです。

ハッチが注目されるのは、ほかに理由があるのでしょうか? じつは昨年、須坂市民のあいだで、ある「スキャンダル」が話題になりました。それは、神戸市立王子動物園からハッチのところに「お嫁に」きたクララが出産した、赤ちゃんのことです。

愛妻家認定書須坂市動物園の説明によれば、出産のタイミングから考えて、クララの妊娠は「嫁入り」のまえ、王子動物園ですでに妊娠していたと考えねばならないのだそうです。それを知りながら赤ちゃんを「クラッチ」(=クララ+ハッチ)と命名した須坂市動物園の度量もさることながら、クララとクラッチに対する、ハッチの変わることのない態度が、おおくの市民の共感?を呼んだようです。興味深いことに、ハッチは日本愛妻家協会という団体から、ヒト以外の動物として最初の愛妻家認定書を授与されています(写真はハッチの獣舎のまえに掲示されている認定書)。

スキャンダルとか共感とか言っても、すべてはハッチとその家族を観察する人間の、過剰な思い入れに過ぎないのはもちろんです。しかしハッチの身の回りには、さらに思い入れの過剰さをあおるような出来事が続きます。

この4月、クララに第二子が誕生しました。こんどこそハッチとクラッチのあいだに・・・と期待した須坂市民に対して動物園は「赤ちゃんがハッチの子の可能性は五分五分の状況です」と説明しました。動物園の発表によれば、カンガルーの雌は、受精卵を胎内にとどめておくことができ、したがってクララの第二子についても、王子動物園から持ってきた受精卵が成長した可能性があるということです。

このことについて動物園は、次のようにコメントしています。

「動物園といたしましては、赤ちゃんがどちらの子であっても健康ですくすくと育ち、家族が増え賑やかになったハッチファミリーが今後とも多くの皆様に愛されることを願っています」

 資料: 須坂市動物園による発表の全文

この発表を読んだひとの多くは、家族とは何かということ、またそれを取り囲む社会のあり方について、心ならずも思いを馳せてしまうでしょう。過剰な思い入れは良くないと思いながらも、ぼくは次のようなことを考えました。

・・・須坂動物園のことばを借りるまでもなく、私たちの望みは他の何よりも、生まれてくる世代が「すくすくと育ち」、「多くの皆様に愛される」ということであるはずです。

私たちは、カンガルーの子どもについては、それを望むことができるのに、人間の子どもについては、たとえば出生届で「嫡出子」と「非嫡出子」を区別するように求め、両親がそれを拒否した場合には、戸籍の作成を拒否するというようなことが、平然とおこなわれてきました。

もちろん戸籍なんかなくても子どもは育ちます。しかし、子どもの社会生活を第一に考えるという習慣があれば、嫡出子と非嫡出子を区別しないまま戸籍をつくることだって可能だったはずで、制度上の完全さを守るために、戸籍のない子どもがいても仕方がないという考え方は、私たちの社会を抑圧的なものにするだけで、何も得るところはないように思います。

 記事(ウエブ魚拓を利用しています): 
 出生届不受理で無戸籍の子供、東京地裁が住民票作成命じる

ハッチとクララの例をあげるまでもなく、大人の世界にはいろいろな事情があります。重要なのは、そのことで子どもに不利益を与えないような制度をつくることであって、その逆ではないはずです。

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2007年06月04日

約束の旅路 [映画]

ひとはどんな過酷な運命に遭遇しても、少数の善良な人びとの支えがあれば、充実した人生を生きることができる。・・・それがこの映画のメッセージです。

ツォツィ』とは対照的に、文部科学省特選作品に選ばれたこの作品には、素直に感動できないという人もいるかも知れません。善良な人びとに囲まれていれば、人生がうまく行くのはあたりまえではないかと言われたら、まったくその通りです。

むしろ善良さを期待できないところで、人間がどのように生きられるかを追求する方が、文学上のテーマとしては高級な感じがする。そんな風に思う人もいるでしょう。

それはその通りなのですが、もっと「高級」なテーマを見せて欲しいんだと言ってだだをこねる観客は、結局のところ、他人の「善良さ」など気にせずに暮らしてゆける幸福な人、あるいは「善良さ」を気にせずに暮らしていけると思い込んで生きてゆける幸運な人なのだという気もします。

年金記録問題をはじめ、いろいろな制度上のほころびが見えているとはいえ、日本の社会は、少なくともマジョリティを占める人びとにとっては、「善良さ」以上のものを提供してくれるところです。

社会とはそのようなものだと信じている人にとって(ぼくじしんもそのように考えがちですが)、『約束の旅路』の主人公である少年シュロモ(映画の途中から青年シュロモになります)のような経験、つまり故郷から遠く離れ、じぶんのなまえも、家族のなまえも偽って生きてゆかねばならないという経験は、にわかには理解しがたいものなのかも知れません。

「善良さ」は、文学上の重要なテーマではないかも知れず、また社会にとっての解決策でもないというのは確かですが、問題はその「善良さ」によって、辛うじて社会につなぎ止められている、シュロモの在り方なのです。

ところでこの映画は、1985年の「モーゼ作戦」でイスラエルに移住したエチオピア系ユダヤ人を描いたものですが、何かとエチオピアへの思い入れが強いぼくの目から見て、ちょっと違和感を感じるところが、ないわけではありません。たとえば、「エチオピア人は夜空の月に向かって祈ったりしないだろう」とか・・・。

しかし他方で、フランスで制作された映画なのに、台詞の約1/3がアムハラ語(エチオピアで話されている言語のひとつ)という思い切った台本はすばらしく、字幕ではなかなか伝わらないような、アムハラ語の美しい表現も随所に見られます。

またシュロモの故郷に対する思いや、どこに向けて良いかわからない怒りといった感情は、非常な切実さをもって描かれているように思いますが、それはこの映画の監督じしんが、移民としての経験を持っているからなのでしょうか。

約束の旅路
http://yakusoku.cinemacafe.net/

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