2007年05月12日

ツォツィ [映画]

『ツォツィ』を観た人は、この映画のホームページで、ちょっと変わったアンケートに答えることができます。「ツォツィは映倫でR-15(中学生以下鑑賞禁止)の指定を受けました。この映画は中学生が見てもよいと良いと思いますか?」というアンケートです。

この映画の冒頭では、不良たちが善良な市民から金を奪おうとして、簡単に殺してしまう描写があります。映倫の委員が、この映画をR-15指定することで、青少年の暴力抑止に気を使っているふりをしたがるのも、無理のないことです。というのも彼らの関心は、何かの責任を負わされることから、逃れることにしかないのです。

ツォツィは、金を奪うために他人を簡単に殺してしまう不良として登場します。そこには人間らしいモラルの欠けらもありません。確かにそのとおりですが、では単に暴力を覆い隠すだけで社会的な責任を免れると思っている人たちに、どのような倫理があると言えるのでしょう?

ツォツィは駅でであった物乞いに対して、「犬のようになっても、どうして生きるのか」と尋ねます。もちろんそれは、暴力的な父親におびえながら育った、ツォツィじしんに対する問いかけでもあります。その物乞いは、ツォツィの問いに対して詩のような表現で答えますが、つまりそれは、答えのない問いだということです。

まともで "decent な" 生き方をすること、そして尊敬される人間として生きることはやさしいですが、「犬のようになっても」どうして生きるのかという問いには、簡単に答えられない。15歳にならない子どもだからこそ、そのことを知っておいて欲しいと思います。それこそが、社会の倫理にかかわる問いだからです。

もちろんツォツィは、たちの悪い「不良」であり、他人に銃を突きつけて命令することでしか、コミュニケーションの取れない人間として登場します。私たちの子どもたちには、そのような人間になってほしくない。

それはそうですが、私たちの社会で決定権を握っている人たちの中には、(決して人を殴ったりはしないけれども)理不尽な命令でしかコミュニケーションできない人たちが、たくさんいるのではないかとも思います。

じつのところ、この映画が提示しようとしている結論は、銃を突きつけるのとは違うやり方で、私たちは理解しあうことができるというものであり、それは南アフリカの人たちが(あるいは私たちの世界が)直面している経済的な格差や社会的な不平等を考慮するならば、むしろ健全すぎる結論だというべきです。

その健全さに対して、子どもたちに見せるなという答えしか提示できないことは、どのような倫理とも関係のない、臆病さでしかないのであり、その臆病さと保身とが、彼らをして「この映画を観るな」と命令させるのです。

ツォツィ公式ホームページ
http://www.tsotsi-movie.com/index.shtml

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