2006年12月11日
嫌われ松子の一生 [映画]
10日にいちどほどの間隔で、電子メールの受信箱に「幸福日記」と題したエッセイが届きます。宗教の勧誘とかではなく、関西学院大学の社会学研究科が発行しているメールマガジンに、若手研究者が連載しているエッセイです。
幸福について一緒に考えましょう、という呼びかけに対して、何となく感じる居心地の悪さ、あるいは「宗教じゃあるまいし」という反発はおそらく、市民のあいだに浸透している信条、あるいは漠然とした合意のようなものに関係しているのでしょう。
つまり幸福というのは、それぞれの個人が、それぞれの価値観に照らして発見すべきものであり、誰かに押しつけられるものであってはならないという考え方のことです。
しかし、よく考えてみると、価値があると言える行為は何か、また幸福と呼ぶに値する状態は何かということは、じっさいにはほかの誰かと相談したり、交渉するなかで決まってゆくものであって、文字どおりひとりで「発見」するようなものではありません。
だから、ふとしたはずみで中学校の教員を首になり、ヤクザの女になった松子が、どんなに殴られても「ひとりで生きるよりはまし」と呟くのは、理由のないことではありません。孤独から逃れようとしてヤクザの女になるのは、賢い選択とは言えないにせよ、孤立は価値を見失わせるのです。
この問題について、映画『嫌われ松子の一生』のメッセージは、どちらかといえば単純なもので「人の価値は他人に何をしてもらったかではなく、他人に何をしたかで決まる」といいます。松子は、どれほど裏切られ続けても、人を愛するということを止めようとしないからです。
ただし表面上のメッセージとは裏腹に、嫌われ松子の「一生」はじっさいには、次々と襲いかかる暴力的な運命に耐えて、やみくもに誰かを愛しようという松子の試みが、最期まで彼女の幸福に結びつくことがなかったのだという事例を示しています。
映画の中で、人を愛し続ける松子は、聖書が教える神のような存在なのだと説明されますが、じっさいには松子は、身に覚えのない罰を受けながら、「どうして?」と呟くヨブの役を演じているのであり、それこそがこの映画の見どころなのだと思います。
なお、冒頭で紹介したメールマガジンは、次のページから購読の申し込みができます。
関西学院大学大学院社会学研究科
21世紀COEプログラム「人類の幸福に資する社会調査」の研究
http://coe.kgu-jp.com/jp/
nishi makoto
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