2006年10月07日
希望について [ほん]
希望というのは厄介なもので、強く信じさえすれば実現するというものでもないようです。例えば一生懸命に働きさえすれば豊かな老後が保証されるという「希望」は、あれほど多くの人が固く信じていたのに、どこかに行ってしまってもう帰ってこないように思われます。
もちろん、初めから強く信じない方が良さそうな希望もあります。例えば、戦争によってテロのない社会をつくることに希望を見いだす大統領もいます。
もう少し一般的に言えば、希望というのは何か、都合の悪いことを誰かに押しつけようとするときに語られるものだと思われます。たとえば、痛みに耐え抜いたその先に、活力のある社会が待っているとかいうあれです。
このさい「希望」と名のつくものは一切、信じないようにしようとまで決意する必要はないにしても、あまり深入りしないほうが得策だという気分が広がるのも無理はありません。また希望について語ろうものなら、「頭が良さそうに見られない」か、少なくとも「単純なやつと思われてしまう」と考える人が多いのも、理由のないことではありません。
ただ、あらゆる「希望」の背後にある都合の悪いことや、それを押しつける仕組みが暴露されたとして、その次にくる社会にどんな希望が持てるのか、という問いまで避けて通るわけにはいきません。というのも私たちは既に、あまり希望を持たないようにしている人たちの社会に生きていて、しかもそれは決して生きやすい社会ではないと思われるからです。
『希望について』という本で立岩真也は、「ここ三十年ほど流行し消費された知は、あまり面白くなかった」と述べています。これは決して、社会学や思想が「もう役に立たない」と言っているわけではないようです。むしろ、これまでの思考がとても重要な貢献をしてきたのは認めるが、もう少し踏み出して考えてみなけば、結局は「都合の悪いことを押しつけられている感じ」から逃れられないはずだ、ということです。
何というか、「あなたが頭はいいのはわかったけど、それでどうしたいの / どうして欲しいの?」と聞き返したくなるような物言いには、率直に「面白くない」と言っておいて、排除や抑圧のない社会という希望について発言するのが、より正しいやり方であるように思われます。
nishi makoto
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