2006年10月15日

喧嘩両成敗の誕生 [ほん]

他人を見下す若者たち』という本があって、やる気がなく、謝まらず、他人を軽視し、すぐキレる若者たちが増えていることについて、その「根源的な要因」を探求しているのだそうです。

ただしこの本の評判は芳しくないようで、アマゾンのカスタマーレビューには、若者を批判して溜飲を下げる「大人げない中年の著書」に過ぎないという意見も寄せられています。

現代社会に警告するはずの著書が逆に、「こんな本が書かれるのは、最近の大人が大人げないからだ」とまで言われてしまうのは、確かに最近の若者が「他人を見下している」からかも知れません。しかしその若者だって、ほんの少し年を取れば、もっと若い世代から思ったほど尊敬されないことの苛立たしさを、学ぶようになるはずです。

誰かの忠告を必要としている若者だっているだろうに、「最近の若いやつは…」という昔ながらの批判形式は、世代間の建設的な対話を促進するようには思われません。

最近の若者が昔よりキレやすくなったかどうかはさておき、中世の日本人はびっくりするくらいキレやすかったという話が書かれているのが『喧嘩両成敗の誕生』です。著者は1971年生まれということで、研究者としては「若い」世代に属します。

路上で誰かが誰かを笑ったとか、酒屋の女房が寝取られたとか、当事者にとっては深刻だけれども、他人にとっては些細な出来事がきっかけで、多数の死者がでたり、大規模な市街戦の一歩手前まで行ったりする、室町時代の日本人のキレぶりには驚かされます。

筆者によれば中世社会の日本人は、紛争や戦乱を生き抜くために、「親族関係や主従関係、同輩関係など、人間と人間を結ぶさまざまな社会関係」を網の目のように張り巡らしていたのだそうです。

統合的に管理された強力な統治機構によって秩序が維持される現代の日本社会とは違って、中世社会では多元的な社会関係のネットワークが、紛争の発生を未然に防ぎ、むきだしの暴力に晒されそうな人たちを、庇護の場所へと導いたわけです。ところが一歩間違えると、その同じ絆が、紛争を際限なく拡大させてしまう原因にもなる。社会関係のネットワークが周到に張り巡らされているからこそ、暴力の連鎖が止められないこともあるというのです。

この著書の冒頭に「室町時代の京都や奈良に住む公家や僧侶が残した日記を主な素材にして、そのなかに見え隠れする物騒な出来事を細かく拾い出すことで、これまであまり一般には省みられることのなかった室町時代の闇の部分にあえて光を当てたい」と書かれていますが、その目的は見事に達成されています。

ただ、この著書のもう一つの目的である「喧嘩両成敗の誕生」についての記述は、いまひとつ説得力が不足しているような印象も受けました。「自力救済」を基本とする中世社会から、公権力の「裁き」によって秩序が保たれる近世社会に移行するとき、さまざまな社会矛盾を引き受けるかたちで登場したのが「喧嘩両成敗」である、という位置づけはよく理解できます。でも「喧嘩両成敗」の法が、人びとの生活に与えた影響をどう理解したらよいのかという部分で、著者の立場をもう少し強く打ち出してもよかったのではないかなと思いました。

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2006年10月07日

希望について [ほん]

希望というのは厄介なもので、強く信じさえすれば実現するというものでもないようです。例えば一生懸命に働きさえすれば豊かな老後が保証されるという「希望」は、あれほど多くの人が固く信じていたのに、どこかに行ってしまってもう帰ってこないように思われます。

もちろん、初めから強く信じない方が良さそうな希望もあります。例えば、戦争によってテロのない社会をつくることに希望を見いだす大統領もいます。

もう少し一般的に言えば、希望というのは何か、都合の悪いことを誰かに押しつけようとするときに語られるものだと思われます。たとえば、痛みに耐え抜いたその先に、活力のある社会が待っているとかいうあれです。

このさい「希望」と名のつくものは一切、信じないようにしようとまで決意する必要はないにしても、あまり深入りしないほうが得策だという気分が広がるのも無理はありません。また希望について語ろうものなら、「頭が良さそうに見られない」か、少なくとも「単純なやつと思われてしまう」と考える人が多いのも、理由のないことではありません。

ただ、あらゆる「希望」の背後にある都合の悪いことや、それを押しつける仕組みが暴露されたとして、その次にくる社会にどんな希望が持てるのか、という問いまで避けて通るわけにはいきません。というのも私たちは既に、あまり希望を持たないようにしている人たちの社会に生きていて、しかもそれは決して生きやすい社会ではないと思われるからです。

希望について』という本で立岩真也は、「ここ三十年ほど流行し消費された知は、あまり面白くなかった」と述べています。これは決して、社会学や思想が「もう役に立たない」と言っているわけではないようです。むしろ、これまでの思考がとても重要な貢献をしてきたのは認めるが、もう少し踏み出して考えてみなけば、結局は「都合の悪いことを押しつけられている感じ」から逃れられないはずだ、ということです。

何というか、「あなたが頭はいいのはわかったけど、それでどうしたいの / どうして欲しいの?」と聞き返したくなるような物言いには、率直に「面白くない」と言っておいて、排除や抑圧のない社会という希望について発言するのが、より正しいやり方であるように思われます。

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2006年10月01日

ロスト・イン・ラ・マンチャ [映画]

『グリム兄弟』のテリー・ギリアム監督が、2000年秋に撮影を始めていた『The Man Who Killed Don Quixote(ドン・キホーテを殺した男)』は、制作費50億円の大作となるはずでした。

ところがスペインで撮影が始まると、スタッフは突然の洪水で機材を失い、ドン・キホーテを演じるジャン・ロシュフォールは、腰痛で馬に乗れなくなります。度重なる不幸によって、その映画が撮影中止に追い込まれるまでの、監督やスタッフ、出演者の表情を追ったドキュメンタリー作品が『ロスト・イン・ラ・マンチャ』です。

この作品は、もともと『ドン・キホーテを殺した男』のメイキング映像として撮影されていたもので、要するに本編が完成していれば、DVDのおまけ映像に収まるはずのものでした。その微妙な生い立ちを反映して、作品への反応もさまざまなようです。

この作品について書かれたものをインターネット上で検索してみると「ジョニー・デップが出演していると思って観たら、変なメイキング映像で(しかもデップの映像はわずかで)がっかりした」という、まことに可愛らしい評もありますが、さらに深刻になって、「こんな手法は許せない」と激怒している人もいます。

完成しなかった映画についての、言い訳がましいインタビューを延々と見せられるのは耐え難い。失敗は失敗であり、そこには何の価値もないというわけです。

そうかと思うと、「プロジェクトの失敗」という経験そのものに、共感を禁じえない人たちもいるようです。さすがに制作費50億円のプロジェクトに手を染めたことのある人は少ないでしょうが、規模の違いを無視すれば、献身的な努力と、費やされた資金にもかかわらず何の成果も得られないという経験は、けっこう普遍的かも知れません。

どんな時にも失敗は避けられないというのは、確かに重要な教訓です。ただしこの作品は、単に失敗への慰めとして存在しているわけではありません。それどころか、ふつうに完成した映画以上のことを表現していると考えることすらできます。

ロスト・イン・ラ・マンチャ(=ラ・マンチャで途方に暮れる)という主題はもちろん、撮影機材や主演俳優を失って呆然としているテリー・ギリアムたちの姿に重なるものです。

ラ・マンチャはスペインのラ・マンチャ地方、つまりセルバンテスの小説『ドン・キホーテ(Don Quixote de la Mancha)』の舞台であり、したがってテリー・ギリアムの『ドン・キホーテを殺した男』の舞台でもあります。

ギリアム監督は、自らが構想した大作に挑んで破れますが、その姿は風車に突撃するドン・キホーテのようです。『ドン・キホーテを殺した男』の制作に失敗した監督は、『ロスト・イン・ラ・マンチャ』のなかで、自らドン・キホーテを演じるのです。

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