2006年08月25日
タヒチの子猫殺し [コメンタリー]
エチオピアで調査のため知り合いの家に居候していたときのことですが、毎晩のようにネズミがうるさく走り回ることに、みな嫌気がさしていました。あるとき、キッチンの片隅に置かれたダンボールの中に落ちて、出られなくなった若いネズミを発見しました。こんなことを書くと嫌われるかもしれませんが、ぼくは手近にあった容器の中にそのネズミを追い込み、汲み取り式の便所の中に投げ入れました。
暗闇の中に落ちてゆくネズミと、一瞬だけ目が合った気がしたとき、うるさい奴を追い払った達成感はどこかに行ってしまい、うしろめたい気分が残りました。
タヒチに住んでいる日本人作家が、子猫殺しを告白して話題になっているといいます。フランスの法律が適用されるタヒチでは、刑事罰の対象にもなりかねない行為なのだそうです。
もちろん、動物を殺す人がすべて、ろくでもない人間だというわけではないでしょう。ぼくの中学生時代の友人は、子供のころ、カエルの口に爆竹をくわえさせ、破裂させて遊んでいたと話してくれました。彼とは長く会っていませんが、今は立派な銀行員になっているはずです。
ネズミを殺すのはうしろめたいし、カエルを爆発させるのはぞっとするけれども、子猫を殺すほどには世間から非難されない。それだけのことだと言えば、それだけのことですが、仮に一切の殺生は暴力であり、基本的には罪悪であるとして、いったいどのような状況であれば、その行為が許されるのでしょうか。
「殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」と、タヒチで子猫を殺した作家は言います。子猫を殺すという決定を下した彼女が、殺すときに自ら感じる「心の痛み」によって、彼女の行為は許される、あるいは少なくとも、彼女は無慈悲な人間ではないことが証明されると言いたいのでしょうか。
彼女は「社会に対する責任として子殺しを選択した」とも述べています。しかし考えてみれば、子猫を殺すという彼女の決定に至るまでのあいだ、当の子猫は、どんな抗弁あるいは反論をすることも、かなわなかったわけだし、また殺しの瞬間に、わずかの抵抗をすることもできなかったはずです。
このように一方的な暴力の過程で、暴力をふるう側の人間が、相手の「痛みや悲しみを引き受ける」と言うことに、果たしてどのような意味があると言えるでしょうか。いや殺してしまったあとでする言い訳としては、けっこう有効なのかもしれませんが、「悲しみを引き受けるから」と言いながら殺されるほうは、たまったものではありません。
誤解のないように言っておくと、ぼくは子猫殺しは罰せられるべきだとか、非難されるべきだと言っているわけではありません。そんなことを言ったら、エチオピアの便所の中からあの時のネズミが化けて出てくるでしょう。
しかし、子猫殺しをどんなことばで正当化するかは、また別の問題です。直木賞を受賞するほどの作家であれば、自らのどんな行為も、それが間違いではなかったと主張できるだけの文章力があるでしょう。しかしその力を使って、自らの一方的な暴力でしかないものを「相手の悲しみを引き受けている」と言いくるめることは、決して誉められた行為ではないと思うのです。
nishi makoto
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コメント
直木賞受賞作家という社会的影響力のある立場の人間は、子猫殺しにもっと適切な言い訳をせよ、ということでしょうか?
不謹慎かもしれませんが、どんな言葉で正当化するのが適当なのか、一考の余地がありますね。
投稿者 ゴゴ : 2006年08月26日 22:45
適切な言い訳をすれば子猫を殺しても良いという趣旨では決してないのですが、少なくとも「子猫は殺したけど私は慈悲深い人間です」的な言い訳をする人は、信用できないと思うんですよね。
それはそうと、東京に行ったらゴゴさんの店に顔を出そうと思いながら、ご無沙汰してしまってすみません。
投稿者 nishi makoto : 2006年08月30日 12:52
