2006年06月01日
ナイロビの蜂 [映画]
なにも知らされていない患者を犠牲にして、莫大な利益をむさぼろうとする製薬会社と、それを告発しようとする少数の勇気ある人たちという構図は、なにも新しいものではありません。しかし『ナイロビの蜂』は、サスペンスとして秀逸な筋書きに加えて、アフリカで深刻なHIV感染の問題を背景にしたことが、たいへんに印象深い映画です。
国際的な製薬会社が、ケニアの貧しい住民に対して開発中の新薬を投与していることを知ったテッサ(レイチェル・ワイズ)は、その実態を調査している途中で何者かに惨殺されます。テッサの夫ジャスティンによって、新薬開発をめぐる複雑な利権や思惑と、テッサの行動の謎とが明らかにされてゆく過程が、この映画の核心のひとつです。
それだけでも見応えがあるのですが、アフリカのHIV感染や難民問題への取り組みが、この映画に重みを与えています。ケニアのスラムで生活する人たちの表情や、WFPの支援を受けているスーダンの村のようすなどが「じゅうぶんに描かれている」とは言えないにしても、物語のなかで重要な役割をはたしています。
ところで、テッサを演じたレイチェル・ワイズは、この映画でアカデミー助演女優賞を受賞しましたが、彼女は「ビッグ・イシュー」誌のインタビューに答えて、ケニアのスラム街には「深刻な問題もある」と認めながら、「でも、ある意味、彼らをかわいそうと思うのは非常に思い上がったことよ。私たちは違う文化の中で生きているわ」と述べています。
ワイズの答えは言うまでもなく「正しい」というか優等生的な答えなのですが、それだけに、彼女が映画で演じた挑戦的なテッサの役柄と、かけ離れた感じがします。ワイズはひょっとしたら、この映画が「アフリカの人びとを、貧しく粗暴な連中として描いている」というような批判を、気にしているのでしょうか。
たしかにこの映画を観て、アフリカはやはり貧しくて怖いところなのだと結論づけるひとはいるでしょうが、しかしそれは皮相的な見方に過ぎず、経済的な格差や、そこにつけこむ暴力といったコンテキストこそがこの映画の焦点なのだと、ワイズは説明することもできたように思います。「私たちは違う文化の中で生きている」という(それじたいは正しい)発言が、ここでは場違いに響いてしまうのは、そういった文化の違いを蹂躙しながら、貧しいほうの人たちにおそいかかる暴力の存在こそが、この映画の重要な背景だからです。
ただし、ワイズが「場違いな」答えをせざるを得なかったのには、どうやらそれなりの事情があるようです。その事情については、ここで引用したビッグ・イシュー誌(50号)の記事で説明されています。
nishi makoto
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.jafore.org/cgi/mt/mt-tb.cgi/132
