2006年02月05日

権利と義務とホームレス [コメンタリー]

今年5月に大阪で世界バラ会議が開催されるとかで、どうやら市当局は「町をきれいにする」必要があると考えたようです。

靱(うつぼ)公園に住んでいたホームレスが先週、強制排除されました。なんかエチオピアに住んでいたときに、外国から偉い人(どこかの国の首相とか世界銀行の理事とか)がくる数週間まえになると、首都アジスアベバから路上生活者が一掃される、みたいな話を聞いたんですけど、それに似てます。噂ではアジスアベバじゅうの路上生活者をトラックにのせて、郊外に捨ててくるのだとか。

じつは大阪では、公園に住んでいるホームレスの住民登録を認めよという、地方裁判所の(かなり珍しい)判決もでています。ところが、あるテレビ番組のコメンテーターによれば、世の中にはホームレスから住民票を「買って」犯罪に利用するという手口があるらしい。そのような犯罪にホームレスが巻き込まれる可能性を考えると、住民登録を認めるのは、むしろ「彼らのためにならない」というのがそのコメンテーターの意見でした。

何かもっともらしい意見ですけど、じっさいには住民登録が認められると、生活保護の申請ができるとか、いろいろ利益があるわけで、それを「住民登録しないのが彼らのため」みたいに(じぶんは善人だと見せかけつつ)言いくるめる、というやりかたには賛成しかねます。

そんな回りくどい排除をする人よりは、「権利とか言うけど義務のほうはどうなの」とストレートに切り込む人のほうがまだ話せるというものです。たとえば公園に住民登録が認められたとして、ホームレスの皆さんはちゃんと住民税を支払うのですかという話です。

言うまでもなく権利と義務の関係は、われわれの市民生活を規定するものです。靱(うつぼ)公園のホームレスが排除された話ですが、ぼくが見たかぎり、テレビの報道では同情的な意見はあまり聞かれませんでした。彼らが(というか支援団体が)公園での「居住権」を主張したのが、むしろ顰蹙(ひんしゅく)をかったようです。

そもそも公園は「公共の」場所なので、誰であれ占有する権利をいうのは無理だということは、常識ある市民なら誰もが知っています。むしろ市当局がいままで、公園での生活を黙認してきたのがおかしいということになる。

それはそうなのですが、その「黙認」こそが正しかったのではないかという気もします。誰かが路上生活をはじめる理由には、ストレスフルな現代社会に適応できないとか、失業して貯金も尽きたとか、いろいろあるでしょう。いずれにしても彼らが、いわゆる社会復帰を目ざすばあい、現実には道路工事の警備員くらいしか仕事の口がないらしい。

もちろん、じっさいに警備員の仕事で生計をたてている人もいます。ぼくの家のまえでも最近、徹夜で道路工事をやってますが、この寒い冬空に、外で立っている仕事というのは口で言うほど易しいものには思えません。少なくとも暖かい部屋でブログなど書いているぼくが「警備員でも何でもして、いちにんまえの市民として暮らすべきだ」などと主張するのは、むしろ滑稽です。

公園や橋の下で暮らしている人の多くは、空き缶を拾って売ったお金で生計をたてています。つまり公園とか橋の下に住むのは、言ってみれば「まっとうな」生活はできないけど、ぎりぎり社会に踏みとどまっているという生き方です。市民としての権利と義務の関係のなかで生活するという生き方と、その社会から完全に追放されるということとのあいだには「いろいろある」と思うのです。

なんというか、どんなことがあっても市民生活にしがみつくことを強要する社会よりは、「公園に住んでいるおっちゃん」みたいな生き方も承認するくらいの世の中のほうが良いような気がします。

ちなみにアジスアベバの路上生活者が「郊外に捨てられる」話ですが、彼らが何日もかけて歩いてアジスアベバに戻ってくるあいだに、偉い人の訪問は終わっている、という落ちがついています。

それから参考までに、世界バラ会議のホームページはこちら。ひと目みて恥ずかしくなるようなバラ色のホームページです。

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