2005年08月22日

動物園の獣たちはターザンごっこの夢を見るか? [映画]

『マダガスカル』を観ました。これは、動物園での生活に退屈した獣たちが、野生の王国マダガスカルに漂着して、彼らのほんとうの姿を取り戻してゆく物語とかではありません。

確かにセントラルパーク動物園の檻の中で、ライオンのアレックスは百獣の王を演じてきました。しかしじつのところ、弱肉強食の法則が支配し、鋭い爪と大きな胃袋を持つものだけが生き残る(と考えられている)野生の王国は、アレックスの好みではありません。彼はもっと、繊細なところをもったナイスガイなのです。

しかし、アレックスがインド洋の砂浜につくった「自由の女神」はあっけなく炎上してしまい、彼のニューヨークへの思いは、揺るぎないというよりは儚(はかな)いものに思えてきます。他方で、最初は野生の王国と思われたマダガスカル島も、飛行機の残骸のなかで怪しげな集会を開くキツネザルや、南極で暮らせなかったペンギンたち(そのうちの一匹はスシも握るようです)の登場によって、何だか違う場所に見えてきます。

アレックスは「野生にかえる」ことを拒否して、もとの動物園のスターに戻るのか、それとも…という問題をめぐって、映画のストーリーが展開してゆきますが、「飼育」か「野生」かという選択肢が徐々に後退してゆくところに、面白さがあります。公式サイトの説明を読むと、何だか子供向けのアニメ映画みたいな扱いですが、むしろ『シュレック』同様、年齢をとわず楽しめる映画と思われます。

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2005年08月15日

恋愛頭脳 [コメンタリー]

遅いかもしれませんが、恋愛観のレベルを心理学的に分析してくれるという「恋愛頭脳」を試してみました。簡単な質問に回答するだけで、たちどころに判定が返って来ます。結果は高校生レベルでした。

ムッとしてもういちど試したら、先生レベルになりました(なりそうな回答を選んだだろう、とか言わない)。これは非常に好感の持てる恋愛観のレベルらしく、「あなたが特定の誰かと恋愛観で衝突するとすれば、それはおおよそ相手の恋愛観が歪んでいると思われます」という太鼓判を頂きました。

どうやら、これまで「恋愛頭脳」を訪問したひとのデータがすべて蓄積されていて、それにもとづいて「最適」な恋愛観が判定されるらしい。要するに、他人と同じなら良し、違えば変態ということでしょうか。

しかし考えてみると、標準と判定されたから何かの役にたつわけではありません。この分析結果を印刷して彼女につきつけ、「見ろ、俺の恋愛観が標準なんだから、おまえが歪んでいるんだ」と主張したら、間違いなく別れられるでしょう。もし別れられるかわりに、「私が歪んでました、これからは標準になります」と謝られたら、こっちが別れたくなります。

つまり僕たちは、心理学者と付き合っているのではありません。目のまえにいる相手と、どのように折りあいをつけ、よい関係をきずいてゆくか、ということが問われているのであって、どっちが標準なのかが問題なのではありません。それに、パートナーや友人として「標準的なひと」を求めているわけでもありません。

ではどんなひとを求めているのか。標準でなくても良いから、極端でも良いから価値観が一致することが大切だという考えかたもあります。しかし、価値観さえ一致すれば、どんなに極端でも良いというわけでもありません。

例えば、死んでゆくひとの苦悶の表情を見たいという願望を持っているひとと、強い自殺願望を持っているひととが出会ってしまったとして、ふたりの価値観はある意味で一致しています。しかしその出会いは、とりわけ自殺サイトで出会ってしまったばあいは、決して良いものであるとは言えないでしょう。一致は、必ずしも良いものではありません。むしろ問題は、その極端さをどうするか、つまりこのばあいで言えば、どうすれば死ななくてもすむのか、また殺さないですむのか、ということです。

それほど物騒な話でなくとも、誰しもじぶんの中に、他人を傷つけるような極端さとか、あるいは傷つけられるような変さがないと言いきれるひとは少ないでしょう。必要なのは標準化ではなく、一致でもなく、そのようなずれのうえに、どうやって良い関係をきずいていくかということです。

なお恋愛頭脳は、恋愛観のレベルを14段階で評価してくれます。先生レベルは上から4番目です。上から2番目の聖人レベルと評価された人もいるようです。

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2005年08月07日

夢のチョコレート工場 [映画]

あるところに、チャーリーという貧乏な少年がいました。貧乏だけれど正直なチャーリーは、世界一のチョコレート工場を経営するワンカさんから素敵なプレゼントをもらいました。

近日公開の映画『チャーリーとチョコレート工場』の原作は、1964年に出版された児童小説『チョコレート工場の秘密』ですが、この物語はじつは1971年にも『夢のチョコレート工場』というタイトルで映画になっています。

『夢のチョコレート工場』はミュージカルの要素を盛り込んだ楽しい映画ですが、なかでも印象的なのはウンパルンパ族です。彼らは、節度を知らない少年や、わがままな少女に、どうすればもっと良い生き方ができるかを、歌と踊りで教えてやるという、大切な役回りで登場します。原作ではアフリカのピグミー族(!)という設定でしたが、この映画では、聞いたこともない国から連れてこられた「オレンジ色の顔」の小人たちとして登場します。

いつも大人から「何でも欲しがってはだめ」とか「テレビばかり見てはだめ」と叱られながら育ってきた僕たちにとって、ウンパルンパの歌と踊りは、そのメッセージのリアリティと、視覚的なあり得なさとの混合が衝撃的です。

しかし僕が不満なのは、工場主のウィリー・ワンカを演じるジーン・ワイルダーが真面目な紳士の風貌で、原作のワンカさんが漂わせる胡散臭さが後退していることでしょうか。良いひとか悪いひとかわからない童話的な怖さではなく、良いひとと悪いひとのあいだを行ったりきたりする現世的な怖さを、ワイルダーのワンカさんはかもしだしてしまっています。

またそのせいで、貧乏だったチャーリーはワンカさんのおかげで末永く幸せに暮らしました(he lived happily ever after)というストーリー性が、前面に出てきてしまっています。それじゃあただのお説教です。

というわけで、ウンパルンパ頼みの『夢のチョコレート工場』ではありますが、大人も子ども楽しむことができます。また前作への不満をきっと解決してくれるに違いない、デップ主演の新しい『チョコレート工場』への期待が、いやおうなく高まります。

関連記事:チョコレート工場の秘密

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2005年08月03日

秋山郷 [リポート]

長野の秋山郷は、新潟や群馬との県境に近い急峻な渓谷の中にあり、焼畑や木工芸でも知られる山里です。1828年、越後の鈴木牧之という文人がこの郷を訪れ、「秋山紀行」をつづりました。

牧之は当時、江戸随一の流行作家であった十返舎一九と面識があったそうで、秋山郷の珍しい風俗を出版して「広く世間に笑いを提供しましょう」という一九の下世話な誘いに応じるために、この旅を思い立ちました。牧之にとっては苦労の多い旅だったとみえ、揺れる吊り橋を這うようにして渡り、粗末な掘建て小屋の暮らしに驚きます。

牧之にとって秋山の暮らしは、いわば文明から取り残されたものと映りましたが、掘建て小屋に寝泊りして詳細な聞き取りをおこなった彼は、秋山の人について「会ってみればその人柄は格別里の人に変わることはなかった」とも記しています。

さて僕も先日、秋山郷を訪れる機会に恵まれました。牧之が六泊七日かけて旅した行程は、現在では自動車で通りぬけることができます。彼が「仙人の世界に入ってゆくよう」な山道を歩いてたどりついた切明の温泉まで、国道405号線で数時間の道のりです。牧之の頃には、この温泉から先には山道もなく、「秋田のマタギ」たちが「道のない山」を駆け巡ったといいます。現在では切明の温泉も通り道に過ぎず、スキーや避暑で知られる志賀高原を経由して、長野市へと抜ける道路が開通しています。

秋山郷に通じる国道は、数十年前は冬になると積雪のために不通になることが多かったそうです。雪に降り込められた冬には、長野県のヘリコプターが出動して、食糧を投下したこともあったといいます。冬の食糧の確保は、秋山郷の人たちにとって簡単なことではなかったのでしょう。牧之の旅に43年先立つ天明の大飢饉の年には、飢えのために全滅した集落が幾つもあったそうで、当時の墓だけが立つ集落跡が今でも残されています。

僕たちはドライブの途中、「屋敷」という集落に立ち寄りました。ここで民宿を営むおばさんに、お茶と漬物をすすめてもらい、秋山郷を出て建築士の仕事をしながら画をかいている息子さんの話や、近ごろ盛んに畑を荒らすようになった猿の話などを聞かされました。「屋敷」には小さな小学校がありますが、中学校は閉鎖されてしまい、村の中学生たちはスクールバスで遠くの学校に通うのだそうです。近年では冬でも国道の除雪が続けられ、村が孤立することもなくなりました。

この民宿の窓からは、8月になってもきれいに咲いている紫陽花が見えます。涼しい気候と良い水のせいでしょうか。紫陽花があんまり鮮やかなので、写真が飾ってあるのかと思うお客さんがあるんですよ、と民宿のおばさんが自慢しました。

なお、この記事で引用した文は磯部定治による現代語訳『秋山紀行』によります。また秋山郷の観光はakiyamago.comに詳しい案内があります。

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2005年08月02日

パラサイト・ワイフ [コメンタリー]

専業主婦は、男性に依存した生活に甘んじる「過去の女性」なのか。あるいは三食昼寝つきの家政婦なのか。自称フェミニストの中には、依然として専業主婦という生き方を非難することが、じぶんの役割だと思っている人もいるようです。

専業主婦の是非をめぐる議論は少なからず複雑なものでしたが、しかし五月の税制調査会で、専業主婦を社会の寄生虫(パラサイト・ワイフ)呼ばわりする発言があってから、思いがけず話がわかり易くなってきました。

この発言は、きわめて当然ながら世の中の主婦の怒りを買っています。わざわざ言うのもばからしいですが、専業主婦は寄生虫ではありません。戦後の日本社会では、専業主婦が夫に依存しているのと同じ程度に、夫は(したがって企業および国家は)主婦に依存してきたのです。

ここで誤解をおそれずに言えば、自立などという概念はまやかしに過ぎません。つまり専業主婦が依存した女で、働く女が自立した女だという考え方は、間違っています。なぜなら、誰もが誰かに何らかのかたちで依存しながら、生活しているからです。いったい誰かに頼らずに生きてゆける人がいるでしょうか? したがって問題は、誰が誰に依存しているかではなく、互いに頼りあう関係が、どのようなと結びつけられているかです。

たとえば、よく知られているように、多くの社会で「男の労働」には給与が支払われるのに、「女の労働」には給与が支払われない傾向があります。

少し話がややこしくなりますが、無償の労働をおこなっていること自体は、女性が蔑視される原因ではありません。貨幣の対価を求めない労働はむしろ、尊いものとされるばあいもあります。したがって、専業主婦の問題は、必ずしも労働が評価されていないという問題ではありません。

問題は、貨幣にコミットする権力です。つまり夫に支払われる貨幣は、法律で所有権が手厚く保護されている財産であるのに対して、女性の労働には、そのような保護がない(すくなくとも曖昧である)ことです。平たく言えば、給与は「俺の金だ」と主張できるし、もし盗まれても警察や裁判所の助けを借りて取り戻すことができますが、「女の労働」は、盗まれたと主張することすら難しい。というか、どれくらい働いたかもよくわからないので、「三食昼寝つき」と言われても返すことばがない。このことが専業主婦の立場を弱くしてきました。

したがって、女性が「男の労働」に進出することは、女の立場を強くするためのひとつの方法ですが、専業主婦のままでも立場を強くする方法はあります。これは家事や子育ての労働に対する金銭的な報酬を認めるというもので、例えば「年金分割法」はそのひとつです。

ここで整理しておくと、専業主婦という立場は、決して寄生虫ではなく、必ずしも社会的に評価されないわけではなく、単に(貨幣や権力との関係で)弱いのです。いや、単に弱いのでした、というべきでしょうか。パラサイト・ワイフという発言には、専業主婦の立場を弱いだけでなく、社会的に評価されないものにしようという意図があります。この発言をしたのは政府税制調査会の某委員ですが、彼は社会にでて働き、子供を生み育て、そして料理もちゃんとする女だけが、政府として評価に値する女なのだと言っているわけです。

なぜ評価に値するのか? それはある意味で「自立した」女だからです。いや、「都合のよい女」というべきでしょうか。女が社会にでて働くようになれば、会社は男に対する給与を下げることができるし 〔家族賃金の廃止〕、解雇だって遠慮する必要がありません 〔終身雇用の廃止〕。だから女にもどんどん働いてもらいたいけど、少子化対策として子供もどんどん生んでもらわないと困るし、家事も手を抜くなよ、ということなのです。

関連記事:プロジェクトXと定年離婚

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