2005年07月25日

ホワイトバンド [コメンタリー]

このあいだから気になっていた、ホワイトバンドを手に入れました。これをつけて出歩くだけで「世界から貧困をなくそう」という意思表示になるので、たいへん便利です。

世の中には「貧困などというものは存在しない」と言ってはばからない人も少なくありません。大まかに言えば、「金回りが悪いやつが居るとすれば、それはそいつが怠け者だからだ」という意見と、「経済的に貧しいことはたいした問題ではなくて、要は心が豊かであることが大切なんだ」という意見があります 〔前者は新自由主義、後者は多文化主義の一種だということにしておきましょう〕。

どちらも一言でいえば、世界中から食糧やら石油やらを買いあさって、物質的に豊かな生活を維持している人たちにとっては都合の良い考え方です。つまるところ、日本では働き者でも怠け者でも、めったなことで飢え死にはしないし、心が豊かな人も心のすさんだ人も、風邪薬が買えないために命を失う心配はありません。貧困は、心がけの問題ではないのです。

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それはそうと、なぜ「白い腕輪」なのかという疑問はありますが、それはまあ、なぜ「赤い羽根」なのかという疑問と同じようなもので、要するにみんながそれを見て、それとわかれば良いのです 〔多くの人びとの支持を取りつけようとする運動は常に政治的なものであり、それは異なるものを意図的に結びつけることで達成されます〕。

つまり、多くの人がホワイトバンドをつけて出歩くことに意義があります。しかもシリコン製なので、つけごこちも悪くありません。

ところで、シリコンのホワイトバンドを大量に、かつ安価に生産できる国といえば中国しかない。これもまた僕たちが暮らす世界の現実のひとつです。その是非はともかく、アフリカや南アジアの貧困をなくすための運動に、中国の工場が手を貸しても決しておかしくはありません。

しかしケニアのサイザル麻とか、エチオピアのエンセーテ繊維で編んだホワイトバンドが売れるようになったら、もっと直接的にアフリカで雇用を増やせるんじゃないかな、と想像したりもします。ホワイトバンドが今年の流行で終わってしまうなら、元も子もないですけどね。

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2005年07月18日

マックシェイクひとつで [コメンタリー]

じぶんの身体をたいせつに思うなら、バランスのとれた食生活を心がけるのは当然です。余裕があれば野菜は有機栽培、肉は抗生物質を使っていないものを選びたい。とはいえ身体は、自尊心を満たすための道具ではないし、とりあえず胃袋を満たすために、ポテトをコーラで流し込みたいときもあります。

それが僕らがマクドナルドにゆく理由なのであって「マックシェイクひとつで、育ち盛りのお子様が一日に必要とするカルシウムの80%を摂取することができます」とか、そんな説教をされたい訳ではないんです。それに、ポテトの代わりにサラダを選べるとか言われても、あのセットからポテトを取りあげられたら、残るのは湿ったぺしゃんこのパンと、申し訳程度にはさまっている薄いひき肉だけです。そんなものに申し訳程度のサラダをつけて、いったいどうしろと言うのでしょう。

そういえば、いつもマクドナルドで食事をしていると身体にどんな変調をきたすのかを描いたドキュメンタリー映画がありました。この映画の監督は、医者から「健康そのもの」と診断された身体の持ち主ですが、その彼が自ら1日3食、マクドナルドで食事をして、それがどれくらい身体に悪いかを実証するというのです。

はじめから結果のわかっているストーリーのために、自らを犠牲にする態度はどうかと思いますが、マックシェイクにカルシウムが入っていることを宣伝すればお客が安心すると思っているマクドナルドには、もっとがっかりさせられます。

そうではなくて、健康がどうとか、食材がどうだとか、この店は味がどうとか、その他諸々の問題があたかも存在しないかのような 〔大衆的で、故に反市民的な〕 安心を提供することが、マクドナルドの使命なのであって、腹の足しにもならないサラダを提供するマクドナルドなぞ、もはや誰にとっても「僕らの」マクドナルドではありえません。だから「ファーストフードのおいしさは、スローにつくられています」とか言われても、ため息がでるばかりなのです。

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2005年07月13日

七月深夜の田中門前町 [日常のできごと]

知り合いの留学生の家族が、エチオピアからやってきました。アジスアベバからもってきたドロワット(代表的なエチオピア料理)があるからと、夕食に誘われました。

彼が住んでいる町内は、僕が学部生のころ、サークルの友人たちが下宿していた辺りで、昔から良く知っています。でも彼のアパートに行くのは今回で二回目だから、部屋まではたどりつけないだろうと思っていました。ところがアパートの数十メートルも手前から、懐かしいエチオピア料理の匂いが漂ってきたので、目指す部屋がすぐにわかりました。

強烈な匂いの原因は、エチオピア産のバターと唐辛子です。これがあれば日本でもドロワットをつくることはできますが、アジスアベバで調理されたドロワットは、味や香りが微妙に違います。たぶん微妙な違いでしかないのですが、ある意味では決定的な違いです。その匂いだけで、エチオピアにいるような気分にさせるからです。

しかし畳敷きのアパートの一室に充満している、じっとりと重い京都の夜の空気は、乾燥して涼しいアジスアベバの空気とは、ほんらい間違えようがないはずでした。

彼のアパートをあとにしたのは夜中の一時でした。信号をわたって大通りにでると、ぬるく湿ったアスファルトの匂いなのか、それとも近所の飲み屋やお好み屋から運ばれてくるのか、やけに覚えのある匂いがします。都会の夜の匂いと言ってしまえばそれまでですが、そうではなくて、僕がもっとよく知っている匂いです。

そういえば僕は学部生のころ、いつも友人のアパートに入り浸って、たあいもない話をしたあと、自転車でじぶんの下宿に向かうのがこの大通りで、ちょうど深夜のこの時間でした。あのときと全く同じ匂いです。そしてその匂いで僕は、二十歳の頃のあの気分、何が不安なのかわからないことが不安な、あの気分を思いだしました。

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2005年07月08日

中学時代 [日常のできごと]

このあいだ、大学の構内を歩いていたら呼び止められて、広島県のとある町からきたという控えめな中学生から、少しだけインタビューさせてくださいと頼まれました。

あとで知ったんですけど、このごろ中学校の修学旅行で大学を訪問するのが流行っているらしいですね。訪れるだけでなく、大学生と話をしてみようというのは面白い思いつきです。といっても、中学生が思いつく質問は限られているのでしょう。なぜこの大学を選んだのか、なにを勉強しているのか、というようなことを尋ねられました。

ありきたりのインタビューにつきあうはめになったな、と思った矢先、その控えめな中学生は、「あなたが中学生のときに、これをやっておけば良かったと思うことはありますか?」と、僕に質問しました。

意表をつかれた僕のまぶたの奥に、お互いに気になる存在でありながら手をつなぐ事もできなかったあの日のクラスメートの横顔が、一瞬だけ浮かんで消えました。

しかし、見ず知らずの中学生にそんなことを白状する義理はないし、だいいち目のまえにいる彼は、地元の中学校に帰って「大学生の考えていること」というタイトルでクラスの皆のまえで発表するに違いないんだから、それらしい回答をしてあげなければと気を取り直して「もっと町内のボランティア活動とか、そんなことをやっておけば良かったと思います」と答えました。

僕は彼に、嘘をついたのでしょうか? 残念ながら、インタビューはそれでおしまいでした。

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2005年07月05日

自己責任について [コメンタリー]

すこしまえの話ですけど、イラクの人質事件のとき「自己責任」ということばが盛んに言われました。政治や経済を語るときだけでなく、日常生活でもよく使われるこのことばは、日本社会のなかでどんな風に生まれ育ってきたんでしょう。

へんな言いかたですが、テロリストは非常にねじれたかたちで愛とかヒューマニティみたいなものを信じていているのかも知れないと思います。例えば誰かの子どもを誘拐する犯人は、まさか親が「うちの子より金が大事だし」とは言わないと信じているだろうし、イラクのテロリストも、ある種類の「愛への信頼」をもって三人を誘拐したに違いありません。

これに対して日本政府と国民が、「自己責任」だから彼らの生命の問題はわれわれの問題ではないといったとき、パウエル国務長官が「え、違うでしょ」というような発言をしたのを覚えているひとも多いと思いますが、誘拐した当のテロリストも、かなり当惑したに違いありません。

なぜ日本では、自己責任という言いかたで、ヒューマニティへの挑戦に直面することを避けられるという考え方が受け入れられたのか。今どき、大文字のヒューマニティなど誰も信じていないにしても、自己責任ということばで生命の問題を却下できるのはなぜか。

「イラクには自衛隊を派遣することが日本の貢献なのであって、かってに渡航した人たちは自己責任」と主張する人がいるのは、(間違っているとは思いますが)まあ予想されることではあります。

むしろ興味ぶかかったのは、体制に反対する立場をとる人たちのなかに「国家に助けを求めるような生半可な覚悟でイラクに行くべからず。したがって自己責任」という意見が、少なからずあったように思われることです。

どおりで日本国中が自己責任で一致したわけですが、左右それぞれの思想がどのあたりで妙に一致していて、結果的に支配的な言説が生まれてきたのか、またそれが僕らの生活をどのように息苦しいものにしているか、ということを考えるにあたって、自己責任というのは無視できないことばだと思います。

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2005年07月04日

自救自足の保険って [コメンタリー]

保険商品のキャッチフレーズですけど、ひとことで言えば、保険の理念に矛盾していると思うんです。じぶんひとりの力ではどうすることもできない運命を、みんなで何とかしようという互助の制度が保険なのであって、「自己管理は自分で」とかその程度のことだったら、保険など必要ないのです。

まあ、CMのことば尻などどうでも良いのですが、もし生命保険を勧誘するときに「その程度の病気だったら、なかったことにして加入しちゃってください。保険金は支払われますから」みたいなことを言って加入させておいて、いざ保険金を支払う段になって「病歴を偽って加入したのは詐欺行為にあたりますから支払えません」と言うような会社だったら、ちょっと考えてしまいます。

加入者と保険会社のどっちが詐欺なのか、という問題もさることながら、もし世の中の生命保険がみんなこんなんだったら、確かにじぶんの生命のリスクも、じぶんひとりで背負うしかありません。…だから明治安田生命は、「自救自足」の保険商品を皆さまにお勧めしているのです。みずからを救うにみずから足る。あなたが死んでも保険金は払えませんから。

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