2005年05月03日
コミュニケイション・ブレイクダウン [コメンタリー]
このごろ日本社会では、コミュニケイション能力なるものが、重視されることになっているらしいです。わざわざ重視するのは、みんなコミュニケイションが苦手だからでしょう。そういえばこのごろ、引きこもりがちな人が増えているようです。事態はますます悪化しているのでしょうか? 僕はむしろ、好転の兆しである思います。
コミュニケイションがもっとも破綻した状態とは、当事者が意思疎通の欠如を自覚していない状態ではないでしょうか。平たく言えば、本人が会話をしているつもりで、じつは会話を放棄している状態のことです。
例えるなら、「右手で箸を持つな!」と飛雄馬をなぐりつける、星一徹。飛雄馬も明子姉ちゃんも、食事をしているつもりなのに、一徹は食卓でも、飛雄馬と野球をしているつもりになっていて、そんな一徹の思いが、飛雄馬にも共有されていると思い込んでいるのです(そしていっしょに食事をしているはずの明子姉ちゃんは、そんな思い込みの対象ですらありません)。
世の中には、いっしょにちゃぶ台を囲むことがコミュニケイションだと思い込んでいるひともいますが、一徹の絶望的なコミュニケイションは、そんな思い込みを、明快に裏切っているのです。
もう少し僕たちの日常に引きつけていえば、たとえば議論をしているときにコメントを求められて(あるいは求められてもいないのに)、「そもそもあなたのいっていることは…」などと話し始める人がいますが、これはほとんど、星一徹タイプだと見てよいでしょう。「そもそも」ということばで導かれる発言は、相手に何かを伝えようとしているようで、じつは対話を拒絶しています。
「そもそも、『巨人の星』を読んで育った世代に、コミュニケイションの能力などあるはずがないのです。」…いや、誰かとちゃんと話をしたいと思うなら、こんな発言をしようと思う瞬間に、ぐっとその言葉を飲み込んで、ほかの言葉を捜さねばなりません。
こうしたコミュニケイションの困難を知っている人ならば、取るべき道はふたつ、つまり互いの発言のうえに発言を重ねあわせてゆく試みを、飽きずに続けるか、その試みを明示的にあきらめて、引きこもるかです。困難を知らない人の取るべき道はひとつしかありません。互いに思い込みを押しつけあうことが、コミュニケイションだと思い込むことです。言うまでもなく、思い込みに挫折はありません。
僕の知る限り、僕らは互いの意思を確かめあうことを、真剣に考えるような世の中に生きてはいません。そして、そうした状態は、決して今に始まったことではない。少なくとも星一徹が生まれたときには、そんな社会だったに違いありません。
それがここにきて、コミュニケイションを明示的にあきらめる人が増えているということは、ひょっとしたら、この社会で生きている人たちのあいだで、コミュニケイションの困難について、それだけ真剣に考える風潮が生まれつつあるということかも知れないのです。
nishi makoto
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