2005年05月31日

彼女を信じないでください [映画]

話を聞かない親父、痴呆症の祖母、思い込みの激しい息子…。彼らが、じつは思いやりと愛情にあふれた家族なのだと言われても、僕らはにわかに信じることができません。

どれくらい信じにくいかというと、美しい女性から「あなたを愛している」と言われたけど、彼女が詐欺師であることも知っている、というような状況に匹敵するくらい。要するに、信じることの先に幸福があるとわかっていても、どうやって信頼すればよいのか、わからないのです。

そんな込み入った社会をまえに、決して躊躇したりしないのが、韓国映画にしてラブコメの常道をゆく、「彼女を信じないでください」の良いところでしょうか。

天才的な詐欺師であるヨンジュの嘘が、ゆるぎない家族愛のなかで、ひとつひとつ真実へとおきかえられてゆく、というストーリーはなんだか強引だと思っても、またその展開がラブコメという「甘い嘘」そのものなのだとわかっていても楽しめる。というより、その強引さや嘘をめあてに映画館へと足を運んだのです。

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2005年05月30日

プロジェクトXと定年離婚 [コメンタリー]

社会のため、家族のために、命を削って働いた=戦った男たちの物語に、どうして僕らは耳を傾けねばならないのか。

それは込み入った問題ですが、日本人たるもの、毎週必ず「プロジェクトX」を観て、寝る前には必ず「地上の星、地上の星」と唱えなければいけない。さもなければリストラされて首をくくったサラリーマンの亡霊に、この国は末代まで祟られるのではないか、という不安が、国民の心のどこかで育ちつつあったことは、否定できないと思うのです。

「プロジェクトX」という番組そのものが、高度成長を戦い抜いた無名戦士を、美しい物語とともに葬るという、社会をあげてのプロジェクトなのですから、「事実と違う」とか、「過剰な演出」とか言い始めたら、それは決して、特定のエピソードについての問題ではありません。

プロジェクトXの物語のなかで繰り返し現れるモチーフのひとつに、「男が自分を犠牲にして社会のために働いた=戦ったのは、実は愛する家族のためであった」というのがあります。これをぜんぶ嘘だといって片付けるには気が引けますが、他方で僕らは、物語のモチーフと、僕らが現実に知っている社会とのあいだに、おおきな隔たりがあることも知っています。

たとえば僕らの知っている社会では、毎年増えつづけてきた離婚件数が、平成16年度の統計で減少に転じました。夫の定年を待って妻が離婚を申し入れる、いわゆる「定年離婚」が減ったからだそうです。なぜここにきて定年離婚が減ったかというと、それは2007年に施行される「年金分割法」を待って離婚しようと考えている妻が多いからだ、という説が有力らしい。これを2007年問題というんだそうです。

定年離婚される夫が悪いというつもりはありません。しかし、離婚届を握り締めて2007年の到来を待つ妻は、彼女の夫が「愛する家族のために」働きつづけたと思えないのでしょう。彼女もプロジェクトXを観るかもしれないけれど、それは彼女の夫についての物語ではないのです。

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2005年05月15日

チョコレート工場の秘密 [映画]

もしあなたが、チョコレートを一枚買うお金もないような、貧しい家のこどもだったら。それで、たまたま道で拾ったお金で買ったチョコレートに、工場見学の招待券がついてるんですけど、そのチョコレート工場をつくったのがティム・バートンで、工場を案内してくれるのがジョニ・デップだったら。

しかもそのチョコレート工場には、いろいろと秘密がありそうで、その一端はここで見ることができます。予告ビデオの映像がいくつか公開されていますが、必見なのは"teaser trailer"です。デップの"Chewing gum is really gross, chewing gum I hate the most"(チューインガムって気持ち悪い)というセリフが、まず可笑しい。

それから、映像のバックに流れている楽しげな歌が気になりますが、その歌詞はひとことでいえば、(ジョニ・デップが扮する)チョコレート工場主のウィリー・ワンカは、賢くて親切で、その天才と寛大さは、隠そうとしても隠し切れない・・・という意味なのですが、これが例の「チューインガムって気持ち悪い」という発言と、見事にミスマッチしており、「隠し切れないのは、あんたの胡散臭さですから!」と思わせるところが、たいへん良いです。

ちなみにワンカさんのチョコレート工場のホームページもちゃんとあって、ここでも工場プロモーションのページに"Good luck to all, and happy hunting!"(狩りを楽しんでね!)とか訳のわからないことが書いてあったり、「今月の従業員」がまた胡散臭かったりします。

日本では『チャーリーとチョコレート工場』という、あんまりいけてないタイトルで公開される予定だそうですが、秋まで待つ必要があります。映画の原作は翻訳されていて、すぐに読むことができます。

追記(2005/8/6):『チャーリーとチョコレート工場』の日本語ホームページも公開されましたが、上に紹介した英語のホームページのほうが内容が充実しています。また原作の『チョコレート工場の秘密』(てのり文庫版)は現在、品切れになっているようです。

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2005年05月14日

水俣の海 [映画]

映像民族誌を撮っている友人に、彼が優れていると思うドキュメンタリーを挙げてほしいと言ったら、水俣に取材した土本典昭の作品を教えてくれました。折りよく大阪の映画館で、土本作品の上映会をやっていたので、最終日のきのう、「水俣-患者さんとその世界」を観ることができました。

さて僕は、父か母の本棚に「苦海浄土」の単行本があったのを覚えているけれども、手に取ったことはありませんでした。また大学の先輩が水俣病患者を支援するサークルに入っていたのは知っていたけれども、社会人になった彼が、もうそんなことは忘れたかのような話しぶりであったこともまた、印象的でした。そういったことを考えながら、僕は映画の切符を買い、ひとつまえの上映が終わってでてゆく観客を、横目で見ていました。

シネ・アソシエはこの作品について、「水俣病の告発を意図するにとどまらず、患者さんが棲む水俣をひとつの世界とした視点で描かれている」と紹介しています。

決してわかりやすい文章ではありませんが、じっさいにこの作品を観ると、水俣の海でタコを採り続けてきた老人の姿、ボラ漁の風景、死にいたる水俣病の症状についての語り、そしてチッソの株主総会に乗り込むために大阪に向かう患者さんとその家族の姿について撮られた映像が、ひとつの告発を後押しするようにして、僕らに働きかけてきます。

1971年に公開されたこの映画を、いまもこうして観られること、また僕が生まれた翌年に公開された映画を、今まで観ないできたことなどについて、いろいろな考えが頭から離れません。

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2005年05月08日

水上温泉 [リポート]

このあいだ、水上温泉に行ってきました。谷川岳のふもとにあるこの温泉は、昭和六年、上越線の開通をきっかけに、多くのひとに知られるようになったのだそうです。与謝野晶子や太宰治、北原白秋らが訪れたという、由緒ある温泉地でもあります。ただこのところ、地方の温泉を訪れるたびに気になっていたのですが、水上温泉も例にもれず人影が少なく、廃業した温泉旅館がいやでも目を引きます。

先だっての不正表示さわぎでは、水上温泉でも水道水を使用していた施設があったことが発覚したようですが、もちろんそんな瑣末なことで、由緒ある温泉地が見捨てられたわけではありません。誤解を恐れずに言えば、一晩や二晩滞在して去ってゆくだけの観光客など、水道水を沸かして浸からせておけば、それでじゅうぶんなのです。そのうえ市販の「温泉の素」でも入れておいてくれたら大満足です。

そんなことより深刻なのは、温泉ブームと言われる日本で毎年、100軒もの旅館やホテルが廃業しているらしいことです。社員旅行などの団体客が減っているためだそうです。

僕はバブル末期に就職し、バブル世代らしくあまり深く考えずに会社を辞めた経歴があります。僕らにとって社員旅行は、唾棄すべきオヤジ社会の象徴でした。その思いはいまでも変わらないものの、会社を辞めてから十年が経ち、水上温泉の廃業したストリップ劇場の前に立つと、あの社員旅行が、じつは多くの人たちの生活を支えていたのだな、という風に思ったりもします。寂れた温泉場は、いわば「地上の星」が投げかける影のようなものでしょうか。

「団体客を相手にしたホテル経営はもう流行らないから、これからは源泉の雰囲気を大切にして、家族やカップルに足を運んでもらう努力が大切」などと、人ごとのように言ってみても何になるでしょう。それはつまり「生産性の低い社員はリストラされて当然」という、社員旅行なきあとの会社の姿を、温泉場にも徹底させよということです。

さて言い添えておくと、僕が泊まった観光ホテルは水道水ではなく源泉かけ流しで、施設も家族やカップルむけに改装されており、一泊二日の滞在でじゅうぶんにくつろぐことができました。寂れた温泉街から眺める谷川岳の美しさはおそらく昔とかわりがなく、通りには地元の人たちがつくった気の利いた手芸品を売る店がでていたり、無料で足湯を利用できる公営の温泉もできています。年に一度や二度は、国内の温泉にでかけるのも良いものです。

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2005年05月07日

エド・ウッド [映画]

世にも不幸せな物語、というタイトルの映画を見ました。ボードレール家の子供たちに、身の毛もよだつような不幸が次々とおそいかかる話です。結論からいえば、この子供たちはどんな不幸ものりこえるだけの知恵と勇気を持ち合わせているので、全体としては「世にも不幸というほどでもない物語」に仕上がってしまっていました。

こんな話よりも、たとえば「映画作りの才能をまったく持ち合わせていない映画監督」の話のほうが、よほど不幸せについて考えさせられるというものです。ちょっと古い映画ですが、「エド・ウッド」は、そういう話です。

エド・ウッド(Edward D. Wood Jr.)は1980年、Golden Turkey Awardで「史上最悪の映画監督」に選ばれました。映画づくりの技術を学んだことがなく、監督として通常持ち合わせるべき手腕を持ち合わせていなかったエド・ウッドの作品は、観客からも批評家からも顧みられることがなく、彼は失意のうちに生涯を終えたのだそうです。

しかし、彼は誰よりも映画を愛していたし、彼の映画制作にかかわった人たちは、みな幸福だったと、映画「エド・ウッド」は証言します。ひとを幸福にするのは、才能とか技術とかではなく、情熱であり、愛情であるというメッセージは、たいへん説得力があり、同時にいまひとつ説得力がない。というのも、この映画を制作したのは、ハリウッドでも異色の才能に恵まれた監督であり、エドを演じるのは、誰もがその才能を認める俳優だからです。

とはいえ、技術や才能だけがひとを幸福にできると考えることは、何よりも不幸なことであると信じればこそ、ティム・バートンとジョニー・デップは、エド・ウッドに自分の姿を重ねあわせるのでしょう。エド・ウッドがおくった不遇の人生を、書きかえることはできないにしても。

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2005年05月03日

コミュニケイション・ブレイクダウン [コメンタリー]

このごろ日本社会では、コミュニケイション能力なるものが、重視されることになっているらしいです。わざわざ重視するのは、みんなコミュニケイションが苦手だからでしょう。そういえばこのごろ、引きこもりがちな人が増えているようです。事態はますます悪化しているのでしょうか? 僕はむしろ、好転の兆しである思います。

コミュニケイションがもっとも破綻した状態とは、当事者が意思疎通の欠如を自覚していない状態ではないでしょうか。平たく言えば、本人が会話をしているつもりで、じつは会話を放棄している状態のことです。

例えるなら、「右手で箸を持つな!」と飛雄馬をなぐりつける、星一徹。飛雄馬も明子姉ちゃんも、食事をしているつもりなのに、一徹は食卓でも、飛雄馬と野球をしているつもりになっていて、そんな一徹の思いが、飛雄馬にも共有されていると思い込んでいるのです(そしていっしょに食事をしているはずの明子姉ちゃんは、そんな思い込みの対象ですらありません)。

世の中には、いっしょにちゃぶ台を囲むことがコミュニケイションだと思い込んでいるひともいますが、一徹の絶望的なコミュニケイションは、そんな思い込みを、明快に裏切っているのです。

もう少し僕たちの日常に引きつけていえば、たとえば議論をしているときにコメントを求められて(あるいは求められてもいないのに)、「そもそもあなたのいっていることは…」などと話し始める人がいますが、これはほとんど、星一徹タイプだと見てよいでしょう。「そもそも」ということばで導かれる発言は、相手に何かを伝えようとしているようで、じつは対話を拒絶しています。

「そもそも、『巨人の星』を読んで育った世代に、コミュニケイションの能力などあるはずがないのです。」…いや、誰かとちゃんと話をしたいと思うなら、こんな発言をしようと思う瞬間に、ぐっとその言葉を飲み込んで、ほかの言葉を捜さねばなりません。

こうしたコミュニケイションの困難を知っている人ならば、取るべき道はふたつ、つまり互いの発言のうえに発言を重ねあわせてゆく試みを、飽きずに続けるか、その試みを明示的にあきらめて、引きこもるかです。困難を知らない人の取るべき道はひとつしかありません。互いに思い込みを押しつけあうことが、コミュニケイションだと思い込むことです。言うまでもなく、思い込みに挫折はありません。

僕の知る限り、僕らは互いの意思を確かめあうことを、真剣に考えるような世の中に生きてはいません。そして、そうした状態は、決して今に始まったことではない。少なくとも星一徹が生まれたときには、そんな社会だったに違いありません。

それがここにきて、コミュニケイションを明示的にあきらめる人が増えているということは、ひょっとしたら、この社会で生きている人たちのあいだで、コミュニケイションの困難について、それだけ真剣に考える風潮が生まれつつあるということかも知れないのです。

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