2004年11月23日

封印される不平等 [ほん]

『封印される不平等』という本を読みました。国民を「勝ち組」と「負け組」に分別するような社会について、僕らはほんとうに理解しているのか、またそんな社会を望まねばならないのか、というようなことが書いてあって、このところ大学の書店で平積みになっているらしいです。

著者らによれば、いわゆる勝ち組は、自分の力だけで恵まれた地位を得たと思いたがり、負け組は自分の運が悪かったせいだと思い込む傾向にある。いずれにしても不平等の本質を理解しないままに、いまの社会を肯定している、あるいはあきらめているのではないか。僕らは自分の能力や努力に応じて、勝ち組と負け組にふりわけられると信じたがっているけど、ほんとうはそれ以外のところ(親の職業とか収入とか)で決まってくるところも無視できないのではないか、というわけです。

この本はもちろん、日本社会の不平等について分析したものですが、僕はどちらかといえば、豊かな国と貧しい国のあいだにある不平等について、考えてしまいました。ふつう僕らは、日本とエチオピアの経済格差について、日本の技術力、教育の高さ、あるいは逆にエチオピアの産業の生産性の低さや政府の非効率性というような指標からして、当然の結果だと受け止めています。

ところが、ある個人の能力と努力ということを考えると、すこし話が違ってきます。たとえば僕は、日本で修士課程を修了したあとアジスアベバで仕事をしていたことがあります。同じころ、修士課程を米国で修了した友人がアジスアベバで似たような仕事をしていましたが、彼の給与は僕の十分の一くらいだったように思います。同じ町で同じような仕事をしながら、彼がエチオピアに生まれたというだけで収入は低くなります。ほんとうは、僕より彼のほうが職歴もつんでいて、英語も上手でした。彼から教わったことは数え切れないほどあります。

誰もが能力と努力に応じた収入を得るべきだと言いたいわけではありません。たとえば青年実業家と若手研究者とでは、十倍くらい収入の違いがあっても何の不思議もありません。世の中にはできる限りたくさんのお金を稼ぐことが目的の仕事と、そうでない仕事とがあります。大切なのは「人並みの」生活ができることです。それ以上のことは運なり、いわゆる努力なりで決まってもかまわないでしょう。

でも、あまりこういうことは言いたくありませんが、世の中にはたいした貢献も成果もなしにやたらな給料をもらっているひともあります。それはエチオピアも日本も同じですが、ひとつ確実にいえるのは、何も努力していない日本人のほうが、何も努力していないエチオピア人よりもより安定した、より多くの収入を得るということです。

エチオピアに生まれると、安定した生活とか、高い収入といった可能性を実現するのは簡単ではありません。もちろん人間には、経済活動に縛られない多様な可能性がありますが、安定した生活は、ほかのことで埋め合わせができないもので、しかもエチオピアに生まれたひとにとっては、たいへん手に入りにくいものなのです。そしてそれは必ずしも、そのひとの責任ではありません。では誰の責任なのか。エチオピア人はたいてい「政府が悪い」といって納得していますが、僕はそうは思いません。

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2004年11月16日

どこまで近づけばわかりあえるのか [日常のできごと]

国籍とか肌の色とか文化が違っても、お互いに深く共感できる時があります。例えばこのあいだ知り合ったエチオピアの友人は、彼女の誕生日に仕事で会えなかったうえ、電話することも忘れていたらしく、あとで「私は誕生日に泣いて過ごしたの」と厳しく責められたそうです。それで僕が似たような失敗をしたことを話すと「そうかお互いに苦労しているのだな!」という話で共感し、さらに「女性にとって誕生日とは何なのか?」という話で意気投合しました。

別の友人はある日、ぼそりと「今朝は妻と喧嘩してきた」と話し始めました。結婚している男の話はなんだか深刻です。事情を聞くと、「妻が娘の誕生日パーティを準備するのに、1,500ブル必要だといい始めて、そんな金はないと言ったら大喧嘩になった」のだそうです。

1,500ブルと言えば、アジスアベバでは大卒の初任給よりも多いくらいです。彼はよほど腹に据えかねたらしく、「だいたい女は目先のことしか考えないので困る」と、ぶつぶつ言っています。この発言はあまり政治的に正しくないように思われたので、「ちかごろ男と女の平等ということが言われているようだけど」と僕がたしなめると、彼は「男と女はいろいろ違うのだから、等しいなんて言えない」と言って取りあってくれませんでした。

もっともエチオピアの女性も、男のことをけなし始めたらかなり手厳しいようです。ある既婚女性は「エチオピアの男は口ばかり達者で仕事をしないから困る」と言ってはばかりません。彼女の夫は銀行の支店長にして、この言われようですから、彼よりも不幸な男が妻からどんな評価を受けているのか、恐ろしくて想像もできません。

国籍を越え距離を越えてわかりあえる友情もあると言うのに、一緒に住んでいる男と女がこれほどにも理解しあえないものなのか。ただ考えてみれば、男の気持ちを完全に理解してくれる女性がいたとして、そんなひとと一緒に暮らすことが幸福かどうかはまた微妙なところです。あなたの言っていることは良くわからないと(ときどき)言ってくれるひとが近くにいることが大切なようにも思われます。

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2004年11月10日

ロバと馬と犬の話 [エチオピア]

ある日のこと、ロバと犬と馬が一緒にミニバスに乗っていました。最初にミニバスを降りたのは馬でした。ところが馬はお金の持ちあわせがありません。馬は車掌に「犬が僕のぶんも払うから」と言うや否や、走り去っていきました。

ミニバスはまたしばらく走り、次に犬が降りようとします。犬が車掌に金を渡し、釣りを受け取ろうとすると、車掌は「馬のぶんももらっておくよ」と言います。驚いた犬が、馬のことなんか知らないと言うのも聞かず、ミニバスは走り去ってしまいました。

最後にミニバスを降りたのはロバでした。ロバは車掌に金を渡し、車掌はロバにお釣りを渡しました。

・・・これはエチオピアの田舎道で車を走らせているときに聞いた話です。エチオピアでは、ロバが道をふさいでぼおっとつっ立っているのに良く出くわします。車が近づいても一向に立ち退こうとしないので、ロバと言うのは何と鈍いのか、いやロバは視力が弱いらしいなどと勝手なことを言い合っているときに、同乗していたエチオピア人のひとりが、いやそれには理由があって、ある日のことロバと犬と馬が一緒にミニバスに乗っていたんだけど・・・と話し始めたのです。

彼の説明によれば、このミニバスの一件があってから、犬は車を見ると、釣りを取り戻そうとして吠えながら走り寄ってくるのだそうです。そして馬は車を見ると、乗り逃げを咎められると思い驚いて逃げだします。ところがロバは運賃も払い釣りももらっているので、車が近づいても逃げたり追いかけたりする必要がなく、俺は関係がないという風でつっ立っているのだそうです。

エチオピアの田舎道、それもあまり車が通らないような道を行く機会があったら、ロバと馬と犬がそれぞれ、近づいてくる車にどんな反応をするか観察してみてください。

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