2004年08月13日
グッバイ・レーニン [映画]
6月のことですが、友人に勧められてグッバイ・レーニンという映画を見ました。
主人公のアレックスは1989年のベルリンで、多くの市民とともに社会主義に反対するデモに参加します。ベルリンの壁は11月に崩壊しますが、ところがその数ヶ月後、彼は心臓発作で倒れた母にショックを与えないため、涙ぐましい努力をするはめになります。彼女の慣れ親しんだ東ドイツの体制が、ずっと続いているかのように振るまうのです。
このストーリーによって浮き彫りにされるのは、東ドイツの人びとの歴史経験の辻褄のあわなさです。自由と豊かさを求めて、自らの手で壁を崩壊させた市民の経験と、その後の社会が(コカコーラに象徴される)西側の資本によって急速につくり変えられてゆくのを、呆然と眺める市民の経験と、それらふたつの経験の剥離が、耐え難いものになってきます。
そこで映画のラストに近いシーンでは、アレックスとその友人が新しい社会を提案するに至ります。それは人間を勝者と敗者にわけるような、厳しい生存競争の社会ではなく、他者に手を差しのべる友愛の社会です。
彼らは、壁を乗り越える市民の映像に逆転した意味を与え、新しい社会の可能性について考えるように促します。確かに印象的ですが、曖昧すぎる提示でもあります。15年まえとは違って実在の壁が消滅してしまった世界で、私たちが乗り越えるべき壁はどこにあるのか。それを教えてくれている訳ではないのです。
nishi makoto
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消滅から守るべきアイデンティティ
§題材に比してソフトな切り口
スタンスとして、政治的なテーマを選び取りながら、政治色を前面に押し出さずコメディタッチ... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2005年08月30日 17:11
コメント
世界のあらゆるところに,グローバリゼーションの波は押し寄せてきている.
そうした動きは,強者の論理が弱者の論理を駆逐していっているようにも見える.
私たちが暮らす日本でも,そしてアフリカの農村でも,
グローバリゼーション化の流れは着実に進行している.
この映画の舞台は,ベルリンの壁が崩壊前後の旧東ドイツである.
主人公のアレックス君は,社会主義が資本主義に塗り替えられていくなかで,
二つの主義を折衷させた理想の社会を創ることを夢見た.
はじめのうちは母親へのいたわりという軽い気持ちしかなかったが,
時がたつにしたがい彼は自分自身の行動に大きな意味を見いだしていく.
行動を起こしていくなかで,彼の意識はどんどんと変わっていった.
また彼に加勢するなかで,彼の友人たちも変化していく.
結局のところ,彼らの企ては体制に対して何の影響も与えてはいない.
彼が目指そうとした社会は,しょせん想像の産物なのだからこれはしょうがない.
しかし,こうした夢をもつ人々がもっと増えたら,
新しい社会は現実のものとなるのかも知れない.
映画を観終わって私はそう思った.
投稿者 岡本雅博 : 2004年08月19日 16:35
ぼくもみました。
結論はとても周到でロマンチックですが、
たしかにあいまいですね。
でもあそこで「われわれのめざすべき道はこれだ」と声高に
主張するのもちがう気がします。
アレックスくんが母の前で「変わらない」社会主義を
演出することはこっけいですが
かれが奮闘しつづけるにつれ
「変わりつづける」資本主義も同じようにこっけいにみえてくる。
ナントカ主義がすべてうさんくさいものとなり
思想や行動の基盤をどこにおくべきかわからなくなる。
そのようなよるべなさは
ドイツだけでなく世界中の人々が今日直面している
問題だとおもいます。
映画では既存の社会関係を崩壊させるはずの
資本主義の到来と反比例するように
家族や近所関係が緊密になっていきます。
現実の社会でもそううまくいけばよいのですが
なかなかたいへんそうですよね。
投稿者 さがわ : 2004年08月22日 16:35
