グラゲ道路建設協会の紹介
グラゲ道路建設協会(Gurage Road Construction Organization)は、エチオピアの首都アジスアベバで1962年に設立された住民組織です。この協会を組織したのは、現在の南部諸民族州グラゲ県にあたる地域から移住してきた、アジスアベバの住民たちです。彼らの目的は、互いに資金をだしあって、故郷の村に道路や学校をつくることでした。
南部諸民族州グラゲ県はアジスアベバの南西に位置し、大地溝帯とギベ川にはさまれた山がちな地域です。この地域で暮らす人びとは、エンセーテと呼ばれる植物の栽培を中心とした農耕を営んできました。

写真1. グラゲの農村
グラゲの伝統社会は、「七つの家 sebat bet 」ということばで表現されます。ここで言う「家」とは、氏族集団のことです。つまり七つの独立した氏族集団があって、それらの連合体が、グラゲの伝統社会を構成しているというわけです。「七つの家」の政治的秩序は、毎年開催される「評議会 yejoka 」によって維持されました。
エチオピア政府が「七つの家」を支配するようになったのは、19世紀末のことです。当時のエチオピアは、貴族による大土地領有と結びついた支配体制をとっていました。エチオピアの支配を受け入れたグラゲの人びとは、小作農として重税を課せられるようになったのです(この体制は、1974年まで続きました)。
もともとグラゲの村は人口密度が高かったこともあって、農村の生活は困窮し、グラゲの若者の多くは、アジスアベバに出稼ぎすることで生計を立てようとしました。こうしてアジスアベバで生活するようになったグラゲ移住民のうち、社会的・経済的な地位を獲得した人たち(官僚や商人)が中心となって、グラゲ道路建設協会を組織したというわけです。
道路建設協会は1988年頃までに、合計400 kmに迫る道路網を完成させました。未舗装ですが、雨期でも自動車が通行できる、幅6 mの道路です。道路の開通によってグラゲの農村では、都市に出荷する木材の生産や商品作物の栽培が、大幅に増えたと考えられています。

写真2. 農村に建設された道路
またグラゲ道路建設協会は現在までに、数十もの小中学校や高等学校の校舎を完成させました。1960年代のグラゲの農村には、公立学校がほとんど存在しませんでしたが、その代わりに住民が自ら教師を雇って、読み書きを教えてもらうための学校が普及していました。いわゆる非正規学校(non-formal school)の形態です。
アジスアベバを目指すグラゲの少年少女にとって、文字の読み書きや計算の習得は重要でした。道路建設協会の活動によって、農村の非正規学校の多くは正規の小中学校におきかえられ、就学率が向上しました。

写真3. 農村の非正規学校
グラゲ道路建設協会は、今日まで40年以上にわたって、持続的な活動をおこなってきましたが、その過程では、さまざまな対立や圧力に晒されました。
1960年代のエチオピア政府は、道路建設協会が反政府活動の目的で資金あつめをしているのではないかと疑っていましたし、特に農村を支配していた貴族は、事あるごとに道路建設協会の活動を妨害したと言います。また農村住民のなかにも、貴族の妨害工作に協力する者が少なくなかったのです。
それでも道路建設協会の活動が、幅広い支持を獲得することができたのは、協会役員たちの忍耐強い交渉の成果だと言えるでしょう。
先に述べたとおり、過去のエチオピア政府には住民組織の活動に否定的な雰囲気が強く、住民運動の指導者が投獄されるという事件もありました。そのなかで道路建設協会の役員は、「政治的な意図を持たない」活動であることを強調し、国道庁(Imperial Highway Authority)から技術支援を引き出すことに成功しました。

写真4. 国道庁の支援によって完成した橋梁
ところでグラゲ道路建設協会の活動には、ほんとうに政治的な意図はなかったのでしょうか?
道路建設協会の直接の目標は、もちろん道路を建設することでしたが、その活動に参加した人たちが意図したのは、抑圧的な貴族支配に対抗できる社会関係を、都市住民と農村住民のあいだに構築することであったように思われます。
協会役員たちが、どのような交渉によって、都市と農村の住民から幅広い支持を獲得していったかは、私の博士論文の第6章に、詳しく記述してあります。
なおグラゲ道路建設協会は、現在はグラゲ自助開発協会(Gurage People's Self Help Development Organization)と名称を変更して、活動を続けています。
作成者 nishi makoto : 2006年09月06日 15:38